おでんのたまご

「桃太郎さん、桃太郎さん

 お腰につけたきびだんご 

 ひとつわたしに下さいな」

 

どこまで歌っていたのか

わからなくなってしまった。

 

「1番は終わって2番だったか

 イヌ、サル、キジ・・

 犬は桃太郎の家来に

 なっていたんだよな」

 

などと考えながら

歌うのをやめてしまった。

 

マンションが建築中の前を通った。

上を気にしながら歩いていたせいで

どこまで歌っていたのか

わからなくなってしまったようだ。

 

「なにが落ちてくるか

 わからないから

 工事現場の下は

 なるべく通らないほうが

 いいわよ、危ないからね」

 

母のいつもの口癖に背いてしまった。

 

母の口癖は

独り言なのか話しかけているのか

わからない時が多い。

話しかけているように感じた時は

 

「そうね」

 

上の空で返事をし

独り言のように感じた時は

特に返事はしない。

返事をしてもしなくても

決まって

 

「わかった?!」

 

念を押される。

私には、母が独り言を言っていようが

話しかけていようが

ほとんど興味はないのだが

念を押されるのには

少々嫌気がさしていた。

 

もうひとつ

嫌気がさしている言葉がある。

その言葉は

おでんを買いに行かされる時に

左の耳から入ってくる。

 

「たまごは必ず買ってきてよ。

 お兄ちゃんが好きなんだから」

 

私もおでんのたまごは好きだが

最初には食べない。

そんな私の食べ癖を知ってか知らぬか

兄は、まずたまごから食べ始める。

母には

糸こんにゃくから食べ始める私よりは

兄のほうがたまご好きにみえるのだろう。

好きなものを

最初に食べる人と

最後に食べる人がいる

ということを知らないのかもしれない。

バイトから帰ってきて

冷蔵庫から紙パックの

りんごジュースを取り出す。

いつも使うコップを探していた時

母がトイレットペーパーの芯を

手に持ちながら台所に入ってきた。

母は、トイレットペーパーの芯を

几帳面なほど小さく畳むわりには

あまりにも無造作に

ゴミ箱の中へ捨てる。

トイレットペーパーの芯が

いつもゴミ箱の中で

もがいていることなど

きっと知らないのだろう。

たとえ知っていたとしても

今の母には

トイレットペーパーの芯が

もがいている様子を見ることよりも

私にほほ笑むことを選んでいる。

その想いが

くすぐったいほど嬉しいので

特にトイレットペーパーの芯について

なにかを言うことはない。

 

「夕飯はおでんにするから

 買ってきてくれる?」

 

おでんが主役になろうとしている

季節も終わろうとしていたので

あまり人気のない具は

姿を消し始めている。

 

「黄色と緑色の

 花の絵が描いてある

 コップはどこ?」

 

私は、母のいつものセリフを

聞くことを拒否していたわけではなく

いつもの黄色と緑色の花の絵が

描いてあるコップで

リンゴジュースを飲んでから

おでんを買いに行くつもりでいた。

 

「あ~あのコップは

 少しヒビが入っていたから

 捨てちゃったわ。

 おでんのお金を

 ここに置いておくわね」

 

急須の下に3千円が押し込まれた。

私はリンゴジュースを持ったまま

燃えないゴミ入れの

ゴミ箱の蓋を開け

黄色と緑色の花の絵が

描いてあるコップを探した。

母の言う通り、確かに

黄色と緑色の花の絵が

描いてあるコップには

少しヒビが入っていたが、

コップの中の液体が

漏れるほどのヒビではないので

そのまま使っていた。

ヒビを気にしながら

飲んでいたことを

母は知っていたのかもしれない。

黄色と緑色の花の絵が

描いてあるコップを

探すのをやめた。

なにかを飲み干したまま

洗われていない

トランプ柄のコップが

テーブルの上にあった。

そのコップでリンゴジュースを飲んだ。

もはやリンゴジュースを

味わうというよりは

りんごジュースを持っていた

左手首の痛さが、

私の感覚を支配した。

 

「たまご忘れないでよ」

 

隣の部屋で

洗濯物を畳んでいた母の声は

3千円をポケットに入れると同時に

私の左耳を不快にした。

 

「わかってるって・・・」

 

小さく呟いた。

大きく「沖縄産黒糖使用」と

書かれている袋から

飴をひとつ取り出し

口の中に入れる。

 

「今日の外出は

 もう終わりだよ」

 

と言いたげな

オレンジ色のマフラーを

椅子の背もたれからつかむ。

いつものことながら

頭の中では

「たまご・・・たまご・・・」

と祈りを込めた

反復の言葉のように

繰り返された。

 

「うるさいな~!!」

 

「たまごたまご・・・」

 

案の定

いつも買いにいくおでん屋さんは

5時も過ぎれば残っている具は

ほんのわずか。

大根、じゃがいも、焼きちくわは

必ずと言っていいほど

最後まで残っているが

はんぺん、ちくわ、糸こんにゃくは

小さなかけらがプカプカと

おでん汁の中に浮かんでいるだけだった。

幸運なことに

たまごはひとつだけ残っていたが

これは兄の分。

私のたまごと糸こんにゃくは

もはや姿形もない。

 

「お兄ちゃんの分だけでも

 あってよかった・・」

 

兄想いの妹役を演じられればいいが

今日はさほどおでんが

食べたいわけではなかったので

とくに気落ちすることもなく

母の言いつけを守った

偉い子供役だけは演じられると

ひとまずは満足した。

 

お客さんは私ひとり。

まだ、おでん屋の女主人に

なにも注文していないのに

女主人は、大根4つ、焼きちくわ4つ

さつま揚げ4つといっしょに

最後のひとつだったたまごも

ビニール袋に入れ始めた。

ビニール袋の中に

お玉で汁を5杯入れ

輪ゴムで口を閉じようとした時

隣の八百屋さんから出てきた

ベージュの毛糸の帽子をかぶった女性が

 

「できてる?!」

 

と自転車を押しながら現れた。

 

「できてるよ、960円ね」

 

「千円渡すから

 焼きちくわをひとつ

 串に刺してよ。

 あ、30円はおまけね」

 

笑いながら、勝手に値引きをし

今日最後の焼きちくわを

店の前で食べ始めた。

おでん屋の女主人は

店の前で立ち食いされるのは

好まないという顔で

私に顔を向けた。

 

「お待たせしちゃったわね。

 なに入れる?

 残っている具は少ないけど

 残り物には福があるわよ」

 

さほど困った様子もなく

おでんの中をかき回していた。

 

「あ、そうそう

 いつもたまごは買うのよね。

 たまごはなくなっちゃったわね。

 今夜のおでんはたまごなしね」

 

「・・・それは無理・・・」

 

心の中で呟いた。

満員電車の車内から

10人、20人と人が減り

終点の2つ目手前辺りから

おしくらまんじゅうしていた混雑が

嘘のような広々とした空間になった

車内のような、おでんの鍋の中。

それはまるで、靴を投げ飛ばし

ソファーの上にゴロリとした時の

開放的な気分のように

すっかりと寛いでいる

じゃがいもと大根に見えた。

 

「残っている具を、全部ください」

 

「450円ね。悪いわね、これしかなくて。

 でも、今日は気持ちよく完売だから

 400円にしとくね」

 

じゃがいもと大根だけでは

いくらなんでもおでんとは呼べない。

おでんの味がするじゃがいもと大根煮だ。

まして、肝心のたまごがない。

私は自転車で来なかったことを

後悔し始めていた。

右手におでんの入った袋を持ち

新たにおでんを求めて歩き出した。

信号ふたつ目の

4車線ある大きい道路を渡って

右に曲がれば、そこには

おでんが売っているコンビニがある。

迷わず、そのコンビニを目指して

歩き出したのだ。

コンビニで売られているおでんは

おでん屋さんで売られているおでんとは

ひと味もふた味も違い

加えて妙にお行儀よく並んでいる。

たまごがあることを祈りながら

信号を渡った。

 

レジの前には2人並んでいる。

即座に3人目に並び

前の2人がおでんのたまごを

買い占めないことを願った。

 

ひとりは公共料金の支払いだった。

認印が、いつも置いてある場所に

なかったのか、レジの下の棚を

整理していた人と一緒に

あたふたと探し始めた。

レジの前に並んでいる

ということだけが共通点の3人だが

店員の足音ひとつに

虚しく苛立つという

新たな共通点が生まれた。

 

「すみません・・・」

 

と言いながら

ボンボンボンと手慣れた手つきで

認印を3箇所に押した。

2円のお釣りを渡された男性は

レジの前に置いてある募金箱に

お釣りの2円を入れ

洗いたての笑顔で立ち去った。

小学校低学年の頃

本当に気が向いた時にだけ

入れていた、河童の貯金箱を

思い出した。

ある時、河童の貯金箱を振ったら

 

「カラ~ン」

 

という音がした。

 

私は、その乾いた音にびっくりして

河童の貯金箱の中を調べた。

5円が1枚しか入っていなかった。

 

「なんで5円しかないのだろう・・・」

 

河童の顔を見つめながら考えた。

 

「私が寝ている時に

 この河童はコンビニに行って、

 私のお金でアイスやお菓子を

 買っているのかもしれない。

 いや、絶対にしているんだ。

 そういえば、この河童は

 前より太ったような気がする」

 

本気でそんなことを考えていた。

 

「そんなわけはない!!」

 

母に打ち明ける前

河童の貯金箱に200円入れ

今夜の河童の様子を観察してから

話すことにしようと思った。

 

「カラ~ンコロ~ンカラ~ンコロ~ン」

 

音を確かめて布団に入った。

 

河童の観察は

11時で終わってしまった。

翌朝、寝てしまったことを悔やみ

何をするよりも先に

河童の貯金箱を振ってみた。

 

「カラ~ンコロ~ンカラ~ンコロ~ン」

 

205円は入っていることを

まだ眠りを欲している

体全部で受け止めた。

 

母に打ち明けるには

充分な結果ではなかったが

学校に行く前に話さないと

やはり落ち着かなかった。

 

「一昨日、お母さんと2人で

 河童の貯金箱のお金を数えたでしょ。

 ちょうど2000円だったから

 お札に取り替えてって言うので

 千円札2枚を渡したわよね。

 その時、河童の貯金箱に

 何も入っていないと

 河童さんが可哀想だからって

 5円頂戴って言うから

 5円を1枚だけ河童の貯金箱に

 入れたじゃない。

 お母さんは、5円損したのよ」

 

母は、お味噌汁を飲む手を止め

笑いながら言った。

2千円は、そのまま母に預けていた。

 

「そうだった・・・」

公共料金のお金を

財布から出すのではなく

請求書が送られてきた

袋から出すほど

きちんとお金を分けていた

几帳面な男性は

おでんを見ることもなく

私の前から姿を消した。

次に並んでいた女性は

食品や雑貨で

カゴの中は埋め尽くされ

手に持っているのは耐えられず

床の上に置いていた。

食べ物を床の上に置くことは

私にはできないなと思いながら

そのカゴを見つめていた。

26円のお釣りを財布に入れ

おでんを見ることなく

雑誌を立ち読みしていた

男性に声をかけながら

1人で外に出て行った。

さっきおでん屋さんで

30円まけてもらった女性と

河童の貯金箱に

5円入れてもらった私は

同じお得な性格なのかもしれない。

あの女性は、焼きちくわを

愛おしそうに食べていた。

きっと私も、愛おしそうに

河童の貯金箱を見つめていたのを

母は見逃さなかったのだろう。

焼きちくわを手にした右手

5円を手にした右手。

そのふたつの右手が味わった

身体中が解れるような安息感が

焼きちくわの女性と

あの時の私との共通点なのだ。

 

店内で商品の陳列をしていた女性が

もうひとつのレジの前に立ち

 

「どうぞ」

 

と私の方を見て声をかけてきた。

私の番になった時、突然

 

「ちょっとお待ちください」

 

と言われ、今までいたレジ係の男性は

あたふたと店内にいた

もうひとりの女性店員のところに

駆け寄っていった。

次は私の番だから、たまごの心配はせず

そのまま空想の世界に入り込んでいた。

私はここで、どのくらいの間

焼きちくわの女性と

河童の貯金箱のことを

考えていたのだろう。

何分もここに立っていたのだろうか。

いや、そんなはずはない。

私の前にいたショートカットの女性は

おでんを買わずに出て行った。

私はすぐに

 

「おでんのたまごください」

 

と言ったはずだ。

気がつくと、私の後ろには

4人も並んでいた。

 

「おでんのたまごをふたつください」

 

「たまごは、今入れたばかりだから、

 味がしみていないと思いますけど

 それでもいいですか?」

 

さっきの男性は、そのことが

気になっていたのだろうか。

そういえば、私はおでんの鍋の中に

たまごがあることを確かめもせずに

注文していた。

もはや、ないという選択肢はなかったのだ。

 

「はい、いいです」

 

おでん専用の入れ物に

たまごがふたつ入った。

おでん屋さんの女主人は、ビニール袋に

汁をこぼさず見事に入れるが

この女性は入れ物があるにもかかわらず

汁が端から少したれていた。

おでん屋さんの女主人が

ビニール袋に5つの具を入れている間に

この女性はひとつの具しか入れられないだろう。

 

私の後ろに並んでいた4人は

私がお金を払う前に

全員が隣のレジで支払いを済ませ

姿を消していた。

レジ係の男性は、レジに鍵をかけ

おでんを入れている女性を

助けるかのように

白いビニール袋を用意して

私と一緒におでんを見つめていた。

たまごのことだけを考えていたので

じゃがいもと大根しかないことに気がついた。

 

「すみません・・・糸こんにゃくと

 さつま揚げとはんぺんと昆布を

 4つずつ入れていただいていいですか・・・」

 

女性店員は嫌な顔ひとつせず

たまごがふたつ入っている

小さな入れ物から大きい入れ物に

汁一滴こぼさず、見事に

そのまま入れ替えてくれた。

私はその手さばきを見つめながら

ありきたりの安息感にひたっていた。

 

「おでん屋さんと違って

 コンビニは消費税が取られるんだな」

 

改めてそんなことを思い

131円のお釣りをポケットに入れ

昆布ひとつ損をしたような気分で

コンビニを後にした。

 

コンビニの白い袋の中には

コンビニのおでんの上に

おでん屋さんにいた

じゃがいもと大根が仲良く入っている。

おでん屋さんにいたじゃがいもと大根は

再び訪れた混雑に

終点に着いても寝たままで

気がついたら乗った駅まで

戻ってしまった時のような

そんな時の流れの奇妙さを

感じているかもしれない。

おでん屋さんで終わっていれば

コンビニの店内の暖かさを

知ることもなかった。

冷たい風をそのまま味わいつくし

ただ帰路を急いだだろう。

しかし、ひとたび心地良い

暖かさを知ってしまった私には

冷たい風を味わう余裕がなかった。

リビングの椅子に置いた

モスグリーンのコートが恋しい。

コンビニの外に吹く風は

私の体を容赦なく撫でていくが

河童の貯金箱が

 

「少しは寒くないでしょ」

 

と、私の体の表面に薄く暖かい布を

かけてくれているような気がした。

 

おでんを待っている

家族の元に帰るために

コンビニの前でマフラーを

しっかり鼻と口に当て

おでんが入っている

白い袋の口を右手で持ち

左手を袋の下に置いた。

おでんは人に見られても

恥ずかしくないホカロンのようだ。

私はすっかりおでんの暖かさに

頼っている。

おでんは、私の左手に

乗せられている恐怖を

ピチャピチャと話し始めていた。

おでん屋さんのおでんは

コンビニに来るまで

左手に乗せられても

自分の体にぴったりとした

椅子に出会ったような

しっとりとした心地よさを

感じていたことだろう。

ところが、コンビニのおでんが

仲間入りしたことで

左の手のひらよりも

遥かに大きな集団になってしまったため

つま先で立っているような

不安定な状態を

キープしなければならなくなった。

私が袋から手を離せば

間違いなくおでんの集団は

真っ逆さまに下に落ち

堅いアスファルトに

叩きつけられる。

大根やじゃがいもと共に

当然、たまごも

ぐちゃぐちゃになるだろう。

金魚すくいを楽しんでいる人間に

反逆している金魚のように

私は小さな反抗を

家の前で実行することを

かなり本気で考えていた。

おでん屋さんの大根とじゃがいもは

ビニール袋に入っているが

具はぐちゃぐちゃになり

ビニール袋そのものも

破裂するかもしれない。

コンビニのおでんは

汁はこぼれだすだろうが

具は形を留めるかもしれない。

兄は、汁のないたまごか

黄身と白身がバラバになった

たまごを味わうことになる。

たまごにかぶりつく快感は

もはやそこにはなく

なにか物足りない夕飯になる。

河童の貯金箱が、私の寝ている間に

お菓子を買いに行って

たらふく食べていることを

考えていた時は

 

「そんなはずはない」

 

などと、微塵も思い浮かばなかった。

河童の貯金箱は

 

「そんなことしていないよ」

 

と訴えていたとしても

あの時の私には聞こえなかった。

 

今は「そんなことするはずない」と

なぜか遠くから聞こえてくる。

それは私の意識ではなく

おでんの声なき訴えだ。

 

一つ目の信号まで辿り着くと

信号機が黄色から赤色に

変わるところだった。

私が渡りたい通りは4車線だが

交差している通りは一方通行なので

青色に変わるまで結構待たされる。

足元の寒さに反比例するかのように

左手は暖かさを通り過ぎて

熱く感じられた。

右手と左手の役割を

交代しようとした瞬間

おでんの冷や汗とたまごが

蓋の端から少し見えた。

その時、大変なことに気がついた。

当たり前だが

おでんの卵は煮てあるのだ。

生卵のように

脆く壊れやすい状態ではなく

ツヤツヤとしたプルプルの代物に

変身している。

しかも、さつま揚げやこんにゃくを

座布団にしているたまごは

たとえ下に落とされたとしても

そのままの形で

私の目に映し出されるかもしれないのだ。

2つ目の信号は、青色だった。

2車線の通りを渡りながら

おでん屋さんの前を通ることを

暖かい右手が教えてくれた。

渡り終わると、自然と足は

右に曲がることを選んだ。

少し遠回りだが、おでん屋さんの前を

通らずに帰る道を選んだのだ。

ふるさとの違うおでんは

同じ鍋の中に入れられて

温め直されることには

変わりがない。

変わらないことは、もうひとつある。

母の言葉だ。

 

「お釣りをここに置いとくね」

 

「いつも言ってるでしょ。

 そこのお鍋に入れて弱火で温めて」

 

兄が帰ってくるまでの

お決まりの言葉だ。

私と違って兄は

家で夕飯を食べる時は

何時頃帰るか電話を入れる。

夕飯は6時半ごろなので

7時ぐらいまでに帰れる時は

必ず母にラブコールをする。

私にはとても真似のできない行為だった。

家族が夕飯を食べている最中に帰宅すると

 

「なんで電話をしないの?

 このぐらいの時間なら待っていたのに」

 

と文句を言われることが多いのが

私である。

いくら言われても

電話をする気がないのだから

出来るわけがない。

兄がいれば、私の夕飯は

残されたおかずを

自分で用意すればいいので

母の文句もそこで終わるが

兄が帰っていない時は

母は食事の途中でも席を立ち

私の食べる分を用意し始める。

そういう時は、ガチャガチャと

大きな音を鳴らしながら

母の文句は加速しだすので

兄が帰っていなくても

自分の分は自分で用意した方が

私の左耳を不快にすることはない。

 

「自分でやるからいいよ」

 

と口にする時もあるが

結局は1人で食べるのが

あまり好きではないのだろう。

母がお皿に盛ったおかずを

黙ってテーブルに運ぶことの方が多い。

私と2人の時は

母の分は温めないのに

兄が一緒の時は

母の分も温めなおすのは

どうしてだろうと

不思議に思っていたことも

遥か昔のこととなった。

私は家に辿り着いた時のことを

想像しながら、薄暗くなった

夜道を歩いていた。

 

「桃太郎さん、桃太郎さん

 お腰につけたきびだんご

 ひとつわたしに下さいな・・・」

 

やっぱり2番が思い出せない。

2番を思いだそうとしていた時、

私の手の中にあった

おでんの入ったビニール袋は

不意に、私の手から離れ、

見事にアスファルトへと落下した。

なにが起きたのかわからず

ただ、汁がゆっくりと

アスファルトを染めていくのを

呆然として見ていた。

 

「どうしたんですか?」

 

茶色のダウンジャケットに

緑色の毛糸の帽子をかぶっている

男性が声をかけてきた。

 

「私おでんを持って・・・

 夕飯のおかずを買いに行って・・・」

 

言葉にならぬ言葉で答えた。

 

「おでん?」

 

彼にはなんのことだが

さっぱりわからなかった。

 

辺りを見回すと、たまごがアスファルトの

小さな溝を支えに、行儀よく立っていた。

彼は、寒空にコートも着ず

青いワンピース姿の私を

戸惑った様子で見つめている。

電信柱の灯りが

彼女の瞳を演出する役目を

果たしていた。

 

私がアスファルトに見ているものは

彼が私に抱いた幻よりも

強く存在を主張している。

兄も好きだが、私も好きな

おでんのたまごは

パクリと食べられることなく

地上約1mのところから

アスファルトに落とされたが

無残な姿になることはなく

散り乱れることもなく

そこに静かに立っていた。

その卵の姿は、まるで

糸こんにゃく、さつま揚げ、はんぺん

大根、じゃがいも、昆布を

観客にした舞台に

立っているかのようだった。

コンビニにいた時よりも

ビニール袋の中にいた時よりも

さらに美しさを増し

そこに凛とした姿で

ほほ笑んでいた。

河童の貯金箱をに入っているお金を

母と一緒に数えた後は

いつもお金で文字を作って

遊んでいた。

 

「お金で遊んじゃダメよ。

 ちゃんとしまっておきなさい」

 

この一言で

私のひとり遊びは終わりになり

チャリンチャリンと

河童の貯金箱にお金を入れる。

下から入れれば

チャリチャリチャリ~ンと

大きい音をたて

たった1回で入れ終わるのだが

1枚1枚小さい口から入れる

単純作業が気に入っていた。

なぜそんな面倒なことをしていたのか

今ではとても考えられない。

この単純作業には怯えが伴っていた。

いつ母から

 

「うるさいわよ」

 

と言われるか

ビクビクしながら入れていたからだ。

 

1円、5円、10円、50円、100円

ごく稀に500円と

そのすべての音の違いを

音楽のように聴いていたことだけは

はっきり今でも覚えている。

その頃の私には

河童の姿は変わらないのに

お金の種類によって

音が違うということが

たまらない興味をそそっていた。

1円の乾いた音、5円の質素な音

10円の大人になった音

50円の天使の詩声のような音

100円の恋する音

500円のオーケストラの音

それぞれの音によって

河童の表情が不思議と変わって見えた。

1円の音は目を細め優しくなり

5円の音は軽くほほ笑み

10円の音は希望に満ち溢れ

50円の音は安心感に包まれ

100円の音は物思いにふけり

500円の音は未来に躍動している。

そんな表情に見えていた。

すべて入れ終わると、河童は

 

「一緒に遊ぼう」

 

と誘っていた。

手を繋いで、どこかに

連れて行ってくれそうな気がしていた。

本気でそんなことを感じていたのだ

「また始まったぁ。

 うるさいからお母さんが

 入れといてあげるわ。

 手をよく洗ってきなさい」

 

母は、お金というものは

たくさんの人が触っているものだから

お金は汚れているという考えなのだ。

私には、目に見えない汚れなので

手を洗うことに対して

気合が入らないのだが

適当に洗うと

意外とタオルは黒くなる。

ここで初めて、母の言っているように

お金というものは

汚れているものなのだと実感する。

あまりにも早く洗うと

適当に洗っていることが

母にバレてしまうので

流れる水道水でしばらく遊ぶこともある。

河童の貯金箱は、いつしか静かになり

手を洗って戻ると、すっかり

淋しそうな表情になっていた。

 

「チャリチャリチャリ~ンじゃ

 河童さんもつまらないよね」

 

そんなことを呟くと

心なしか河童の表情が

明るくなったように見えた。

 

アスファルトに落ちた

おでんを見つめながら

なんでこんなことを

思い出していたのだろう・・・。

散り乱れたおでんの具は

アスファルトをキャンバスにして

見事な絵を描いていた。

しかしその絵は、ショートストーリー

のように思い出していた

河童の貯金箱が届けてくれる

心地よさを与えてはくれなかった。

 

気まぐれに吹いた風が

足元から全身に吹き荒れ

足を少し開いたまま

棒立ちになっていたことに

気づかせてくれた。

私は後ろを振り向いて

彼の顔を見た。

 

「おでん・・・か・・・」

 

彼も棒立ちだった。

 

「夕飯のおでんを買いに行ったの。

 おでんがおかずの時は

 おでんがメインなの。

 あとはサラダとかお新香とか・・・

 どうしよう・・・

 夕飯がサラダとお新香だけになっちゃう」

 

「おでんてさ、メインのおかずに

 ならないよ。他に魚とか肉とかないとさ」

 

「え~! おでんは立派な

 メインのおかずになるよ。

 お兄ちゃんも、それで満足よ。

 だって、たくさんの具があるじゃない」

 

「そうだけど・・・

 たくさんの具があっても

 やっぱりメインのおかずには

 ならないよ。

 味がみんな同じだもん。

 それって飽きるよ」

 

「そうかな・・・

 ところでおでんの具で

 一番好きなのってなに?」

 

「おでん・・・たまごかボール」

 

「どっちが好き?」

 

「・・・たまご・・・かな・・・。

 考えたことないけど」

 

「やっぱりたまごか・・・」

 

彼はアスファルトの上に

立っているたまごを手に取り

じっと見つめていた。

おでんの温かさに頼っていた

私の体は、青いワンピースだけでは

物足りなくなっていた。

 

「そのたまご、あなたにあげる」

「買ってきたよ」

 

「遅かったわね」

 

「おでん屋さんには

 大根とじゃがいもしか

 なかったから

 コンビニのおでんも

 買ってきたの」

 

「そう・・・たまごはあった?」

 

「コンビニのたまごだけど・・・」

 

「お鍋に入れて弱火で温めてね」

 

兄が帰っているか

兄から電話があった時の

母の決まり文句は

一字一句変わらない。

 

「味が違うけど・・・どうすればいい?」


「別々のお鍋にして温めたほうがいいわね」

 

ふるさとに違うおでんは

同じ鍋に入れられることはなかった。

小さめのお鍋に大根とじゃがいも。

大きめのお鍋にコンビニのおでん。

キッチンはふたつの香りが

入り混じっていた。

兄からの電話があったのかは知らないが

音を立てながら煮えているおでんを

見つめながら、ふと思い出した

歌を口ずさんだ。

 

「桃太郎さん、桃太郎さん

 お腰につけたきびだんご

 ひとつわたしに下さいな。

 桃太郎さん、桃太郎さん・・・」

 

最近は、なぜかこの童謡が、

突然飛び出してくるが

どこまでいっても

2番の歌詞はなかなかでてこない。

なんとか思いだそうとしていた時

鍋の中の音に驚き

急いで弱火にした。

 

「ここのおでんの汁は

 本当に美味しいわよね。

 出汁が違うのよね、きっと」

 

おでんが食卓に並ぶ時の

母のいつもの決まり文句。

おでん屋さんの汁に

惚れ惚れしているのは間違いない。

聞き慣れている言葉なのだが

どういうわけか

この母の決まり文句は

言われる度に

新鮮な言葉のように感じていた。

 

「美味しいよね」

 

すべては夢の中だった。

あの男性は、河童の化身だったのだろうか。

私は食卓につく前に、河童の貯金箱を手に取った。

 

「やりましょう、やりましょう、

 これから鬼の征伐に

 ついていくならやりましょう」

 

あれだけ思い出せなかった

2番の歌詞を

河童の貯金箱は歌っていた。

 

 

〈おわり〉


「おでんのたまご」を

お読み下さいまして

ありがとうございました。

 

お読みくださったあなたに

少しでも

勇気希望

お届けできたら嬉しいかぎりです。

 

 

 

  ~感謝を込めて~

未来メディアアーティストMitsue