角南攻のessay


【目次

 

1.朝顔の観察

2.この店一筋15年の散髪屋

3.あなたが最初に引いた楽器はなんですか?

4.バケツ

5.花火

6.小遣い日給と月給の差

7.クレパスを持たせたら一日中が・・・

8.秘密基地のノート発見

9.ポルトガルの旅


朝顔の観察

7月7日・・・

入谷朝顔市で選んだ一鉢が、

ベランダにある。

葉っぱがあまりにもに密集していて、

花が窮屈そうだ。

緑のビニール紐を購入し、

葉先の蔓がクルリクルリと

紐に巻きつきながら

伸びるように工夫した。

2日も経つと、

みるみるたくさんの花が

咲くようになった。

ある日の朝は、

青と白の朝顔が

8輪も咲き誇っていた。

小学生の頃・・・

夏休みは、自宅の朝顔の観察から

1日が始まった。

実家は南と北に、

樹木の豊かな庭があった。

桃、梅、柿

ザクロ、ビワ、イチジクと、

生活に必要な

生り物の木が多かった。

毎年そこそこに収穫があり、

ミカンとリンゴ以外は

八百屋から買わなくても、

季節のフルーツは

自家調達が出来た。

 俗に「桃栗3年、柿8年

 梅は酸いとて13年」

と呼ばれたように、

生り物は植えてから

実を結ぶまでに時間がかかる。

小学生の頃から、

庭の桃や柿を食べていたので、

植えたのは戦前だろう。

南の庭の西半分は、

小さいながらも

一応は日本庭園を模した造作。

枝ぶりの立派な松の大木やら、

秋には彩りが美しい紅葉が植わり、

緑色に苔むした地表と

直径1mほどの小さな池。

金魚や鮒が泳いでおり、

縁先には風鈴がチリンチリンと、

涼やかな音をたてる。

昔ながらの日本情緒の庭構えである。

逆に東半分は、生活重視の造作。

木の塀に沿って、

キュウリ、ナス、トマトが

植えられていた。

小さな畑が二山あり、

そら豆、ほうれん草に加え、

時には、大根の種も蒔かれた。

おかずの1、2菜は賄える

案配になっていた。

50年以上も昔のこと・・・

化学肥料など一切なく、

便所の肥溜めから

自家製造の人糞を、

母が早朝から畑に蒔く。

妙なる香りが庭に広がる、

長閑な日々。

まァ・・・道には、

馬糞、牛糞がそこそこに落ち、

言わば東南アジアや

アフリカなどの後進国と、

五十歩、百歩の生活状態だったためか、

臭い汚いと、今ほど敏感な人は、

ほとんどいなかった。

どこの家も、

猫の額ほどの土地があれば、

まづ作物を植え、

腹の足しにするのが

当たり前だった。

朝顔、菊、チューリップなど、

目を楽しませる花よりも、

食い物優先というわけだ。

昭和20年代も後半になると、

どこの家も、花を植える

ほんの少しの余裕が出来はじめた。

夏休みの宿題で、

朝顔の観察日記というのが

2年ほど続いた。

どんな風に蔓や葉が伸び、

毎日どれだけ蕾をつけ、

花が何輪咲いたかなどを、

連日に渡ってノートに

克明に記録をつける。

そのことに

なんの意味があるのか・・・

特に疑問にも思わず・・・

記録し続けた。

正直に言えば、夏休みは

ダラダラ朝寝坊したいのだが、

この任務があるから、

割合、早起きしたものだ。

この観察から、なにが触発され

学んだかと思うと・・・

まったくなにもない。

一日、何輪咲いた。

赤が何輪、白が何輪と

統計した数字からは、

たいした発見もなかった。

決まった時間に起き、

決まった場所で

定点観測するという手法は、

その後、仕事や生活のために

利用する考え方にはなるが、

「朝顔の日々の咲き方」には、

予測シュミレーションする

面白さも目的も、なにもなかった。

今の時代とは違い、

クラス全員が自分の鉢を

家に持ち帰り

観察するわけではない。

朝顔のある家の子はそれなりに、

ない子はある家の朝顔を

観察するなど

条件がバラバラで、

比較の基準すらない

おかしな状況だった。

学校では、

チューリップの球根の水栽培、

鶏の飼育日記と、

今思えば、

やたらと観察する宿題が

多かったような気がする。

これはいい意味では、

将来の仕事である

編集に役立っていたかも知れない。

日々変化する姿を

観察する必要性については、

先生から説明もされなかった。

こちらも、疑問すら浮かばず

淡々とやっていたわけだ。

今の小学校でも、朝顔や球根の

観察と記録というテーマは

大なり小なりやっているが、

朝顔は夏休みいっぱいで終わり、

球根は花が咲けばそこで終わり。

花が枯れ、種を散らし、

死滅するまで追っかける

観察日記などというものは、

おそらくないだろう。

花の生涯、植物が命尽きるまで

克明に見ろというテーマではない。

教育の基本として、

花開くまでを負わせること以上に、

その先の満開から散って死滅するまで

見せるべきではとも思う。

無理なこじつけ話だが、どうやら

『夢が膨らみ 花開くまで』を重視する

観察教育の洗礼を受けすぎたせいか、

なにやら仕事上でも、

創刊号を引き受ける

半生になってしまった。

苦労しても

大輪の花を咲かせるまでは、

全力を挙げ続けてきた。

幸か不幸か

漫画のメディアの発展期に乗って、

雑誌やコミックを

作り続けられたことは、

やはり幸せなことであろう。

漫画の花は、

無限の面白さや楽しさが

 

秘められている花なのだ。


「そうだ・・・

 北島だァ・・・

 北島理容店だ」

 

不意に思い出した。

子供の頃に行っていた

床屋の名前だ。

ボクが住んでいた柳原町一帯の人口は、

当時どのくらいだったのか不明だが、

床屋は北島、パーマ屋は黒川の

たった2軒しかなかったので

当然・・・店はとても混んでいた。

今は都心ならば、

カットのみ15分で千円という散髪屋も

いくつかある時代だが、

昔は1人1時間や1時間半はかける

丁寧な仕事だった。

北島理容店には、

散髪椅子が3台しかない。

6、7人も客がいると、

待ち時間も含めれば

4、5時間かかることもある。

大晦日は大混雑で、

朝一番に行っても

綺麗に散髪して

出てこれるのは夕方。

もう1日がかりの仕事だった。

理容店にはふさわしくない

バーコードのすだれ髪、

少々禿頭のオヤジと

小柄で実直な奥さん、

オヤジの両親と思われる老夫婦の4人で、

ただ黙々と髪を切り、

洗髪し、髭を当たる。

待合のベンチで文句も言わず、

客は将棋をしたり、話をしたり、

本を読んだりなどして、

順番が来るのを待っている。

テレビがない時代だから、

店の隅にあるラジオ放送が暇つぶし。

とは言っても、

ニュースと浪曲と尋ね人時間で、

ドキドキする内容でもないが、

子供が聞いても

よくわからないニュースを

「ああだこうだ」と解説してくれる

大人たちの四方山話は、

滅茶苦茶面白かった。

小学校で、多少勉強の出来が良い

少年にとっても、チンプンカンプンの

世界情勢や社会時評が、

面白いほどわかってくる

貴重な会話でもあった。

信憑性がどれほどか、

疑問も多い話ではあったが、

ホラも嘘も含め、

興味津々で聞いていたこともあった。

町内の多くの子供は99%坊主刈りで、

床屋でお金を払ってくる子などいない。

家で剃刃で剃られたり、

あるいは、日曜日に集合させられ、

町会が所有しているバリカンで、

まとめて刈られたりしていた。

床屋へ行く子供は

たったボクひとりで、

周囲はすべて大人たちだった。

家族以外の大人の

様々な話を聞ける、

唯一絶好の機会ではあった。

国内外の政治情勢に始まり、

陶器や繊維など

地元産業の景気の良し悪しから始まり、

ある流行歌手の女好きの話など、

まァ社会風俗、男女関係に至る迄、

まったく知らない話が

雨あられと飛び交っていた。

勿論、土地柄・・・

中日ドラゴンズの話題が

50%は占拠する。

杉下投手と巨人の赤バット川上の

フォークボール対決の真相や、

中日の四番西沢の隠れ打法の秘密など、

もう身振り手振りで教えてくれる。

ボクのドラゴンズ応援歴55年の

基盤データは、この床屋で

大半が固まり磐石となった。

現代では、床屋に置いてある

本の大半は漫画雑誌とコミックスが

定番である。

オーナーの趣味が興じて、

漫画喫茶かと見まごうような店さえ

多々ある。当時は、勿論、

コミックスなどなく

大半の店には、

数冊の講談本が置かれていた。

立川文庫、大日本雄弁会講談社・・・

つまり現在の講談社の

基盤を作ったと言われる、

寄席での講談速記録である。

「真田十勇士」「猿飛佐助」

「寛永三馬術」など、

血湧き肉躍る武勇伝が

名調子で描写された

かなり厚い本だ。

曲垣平九郎、向井度々平、筑紫市兵衛と

江戸時代・寛永年間に、

馬術の名人と呼ばれた3人が、

徳川将軍の御前にて、

お互いの腕と技を競い争う

名勝負の数々。

 

「ハイヨーッ」

 

と高らかに声を上げるや、

曲垣平九郎は馬の尻に

ビシリと鞭を当て、

 

「トーットットットットットッ」

 

と、360段の愛宕山の石段を、

ものともせず駆け上がる。

いやその早いこと、目にも留まらず。

 

「まさに韋駄天の如しィ~ッ」

 

と、今でも一字一句を想い出せる、

感動の名調子名台詞が並んでいた。

落語も講談も、70年代を境に

寄席の席亭も少なくなり、

芸人も芸風も凋落の一歩を

たどっているのは残念だ。

50年代は、NHKの浪曲を加えて

25%近くが3つの芸の時間であった。

昨今の30年間、

視覚メディアがほとんどの

娯楽と生活時間を占めている。

TV、映画、パソコンは勿論、

漫画という巨大なメディアも含めて、

大半が目から入ってくる刺激に反応し、

ドキドキしたり、考えたり

泣いたの笑ったりの視覚文化ばかりだ。

本来・・・耳から入ってくる音楽すら、

MTVとかビデオクリップの

映像効果に重点が置かれ、

リズム、メロディー、

ハーモニーの美しさや

詩の内容以上に、

視覚の是非が問われる形になっている。

耳から入ってくる、キャラの強さ弱さ、

物語、筋立ての面白さ、

感情表現の激しさが、

落語や講談の世界は煌めいていた。

ボクは小学校から

浪人まで15年近く、

この「北島理髪店」以外の

理髪店には行ったことがない。

ボクの父親は、

案外とお洒落で・・・

まァ髪型に関してのみで、

服装のファッションセンスは

どうかなというところはあるが、

上質な生地を購入し、

デパートで仕立てて

いただいていた。

洋服の枚数は少ないが、

一枚一枚丁寧に

きちんと大切に着ていた。

こと洋服に関しては

父親を越えると・・・

気張っている理由でもないが・・・

ボクは父親とは正反対だ。

安いバーゲンの

見切り品ばかりを

数多く所蔵し、

着こなしている。

自慢できることではないが、

スーツをオーターメイドした経験は、

ただの一度もない。

父親は、松坂屋本店の理容院で、

月一回散髪をしていた。

散髪費用は、

かなり高かったと思う。

地元の北島理髪店には、

一度も行ったことがない。

生涯を通して、

ただの一度もネ。

周囲の方々から

よく言われることだが、

ボクは好きでコレと決めたら、

そこ一本の質である。

値段や格式は、

ほとんど考慮しない。

食に関しても、寿司、スパゲティ

ラーメン、もんじゃ焼きなど、

比較的安くて旨い店が多い。

そうは言っても、

京懐石や日本蕎麦などでは、

お高い店があるにはある。

B型特有の好奇心旺盛の一面が、

他の人に比べてかなり濃く

二百、三百の店巡りもするが、

結局はコレ一本の店が定まると、

飽きずに長年通い続ける。

今思えば不思議だが、

どうして15年近く

同じ散髪屋だったのだろうか・・・?

北島理髪店は、とくに腕がよい

というわけではなかった。

誠実だが地道で小さな店ゆえ・・・

流行には鈍く、

流行の勉強もしない店なのだ。

高校時代・・・

リーゼントにしてもらうにも、

こちらは説明に四苦八苦し、

七三分けとか坊ちゃん刈り

しか出来ぬオヤジもまた、

悪戦苦闘したものだ。

コテすら買わなかったなァ。

色気づく年頃になると、

映画や雑誌のファッションを

いち早く取り入れるべく、

旧友は様々な店に出掛け、

ポマードやチックの使い方に

長けていたというのに、

ボクは相も変わらず

十年一日のごとく

北島理髪店一筋であった。

幼少時より15年も通い続けると、

それはそれなりに

お得意様の上客である。

無口なオヤジも打ち解けて、

問わず語りに、

散髪中に話しかけてくる。

息子が理容師免許を取り、

オヤジを助けて店に立つ頃、

一軒しかなかった理髪店に、

腕も評判もいい

数軒のライバル店が誕生した。

多くの客がそちらへ流れ、

昔とは比較にもならぬ

暇な店になっていった。

ボクは中学生だったが、

どんな理髪店が誕生しようと、

月末には北島理髪店の

椅子に座っていた。

当時どこの床屋でも、

小学生には散髪が終わると、

お駄賃というか

おまけとでもいうか、

飴玉かドロップを

一個か二個くれたものだ。

これは名古屋限定の話ではなく、

おそらく全国区の話だと思う。

 

「長い時間待っててくれて

 ありがとうね。

 また来てね」

 

という意味合いの

 

サービスだったのだ。

スースーする後ろ姿、

さっぱりした頭で、

飴玉を口の中に

コロコロ回しながら帰る道は、

それなりに甘く楽しく、

スッキリとした気分だった。

中学時代、友人の話では、

他店では試供品の整髪料や

安い櫛などをお土産に

くれたらしいが、北島理髪店は、

そうした関連業界との

繋がりにも見放されていたのか・・・

相変わらず飴であった。

高校時代も、浪人として19歳になった

ボクに対しても、飴玉一個であったが、

その歳でも飴玉をしゃぶりながら

意気揚々と帰路につくボクは、

変といえば変だったのかもしれない。

その時点で、店は本当に

落ち目の三太郎で、

1日に1人か2人の客しか来ないと、

年老いたオヤジはボヤキつつ、

ボクの髪にハサミをいれていた。

息子も腕の自信をなくしたのか、

店に立つこともなくなり不在。

何処に行ったのか・・・

聞くにも勇気がいる。

主人も黙して語らず、

決してこの話題には触れなかった。

息子も消えて、一年ほど

オヤジ1人が店に立つ。

誰が見ても、もうつぶれる寸前だった。

世の中全体は、高度経済成長が拡がり、

神武景気から岩戸景気に続く登り坂を

邁進する時代。

食糧難から食えない時代を卒業。

家も立ち経済的にも基盤ができ、

少し儲かっている店や企業は、

銀行からお金を借りてでも、

店内改装や設備投資に

英断と勇気を持って

踏み込みつつあったが、

北島理髪店だけは、

扉を木戸からガラス戸に

変える程度の決断で、

椅子も鏡も昔のまま。

床屋のサインは汚れ、

ほとんど廻らずボロボロ。

最初に通い始めた頃の

大混雑の店内や客の華やぎも

スッカリ消え去り、

高度経済低成長・・・

破滅の危機は目の前。

もう時間の問題・・・

というところまで切迫していた。

ボクが高校2年生の頃だったか・・・

唯一無二の大きな

転換期を迎える。

店に愛嬌タップリ、

まァ美人とは言えぬが、声が大きく、

明るい元気な女の子が入ってきた。

理容学校を卒業したての20代。

 

「遠い親戚の娘だが・・・

 まァ婿でも貰って、

 出来ればこの店を

 ついでくれると

 嬉しいんだがなァ・・・」

 

オヤジは弱々しい笑顔で、

革砥を研ぎながら、

繰り返し呟いていた。

男女雇用均等法が施行される

20年前の時代・・・

理髪業辺りから

女性の職業進出が

始まり出していた。

我々の世代だけではないと思うが、

若い娘が散髪してくれたり、

髭をあたってくれると、

なにやらドキドキする。

若い娘の艶やかさ、

華やかさにつられて、

店は再び突然に繁盛し、

往年の輝きを

一瞬は取り戻したかに見えた。

ボクも東京に来てから42年余り・・・

北島理髪店のその後は知らない。

こうと決めたら、この店一筋。

集英社入社後は、30年近く

小学館地下の「ユニアドニス」

という散髪屋通いとなった。

奇妙なことだが、

大学時代の4年間・・・

どこで頭を刈っていたのか、

そこがまったく思い出せない。

スポッと記憶が欠落している。

春休み夏休みなど、

名古屋に帰省した際は、

北島理髪店に行っていたのか・・・。

下宿していた富ヶ谷や早大周辺で、

1、2店行った気もするが、

これだという印象が思い浮かばす、

自分で調髪した記憶も、

友人の誰かが切ってくれていた

などという記憶もない。

本当に大学時代の散髪屋という一点では、

考え抜いても思い出せないのが、

とても不思議である。

幼い頃、北島理髪店までの道は、

とてつもなく遠かった。

自宅から柳原通りを歩いて、

文房具屋のミコちゃん家の

街を曲がるまでに5、6分。

文房具屋と自転車屋の間の道を

真っ直ぐに東上し、

清水口の駅近くまで

ラクラク歩いて10分余。

早川くん家の2、3軒先が

目指す店だった。

子供の足であれば15~20分。

1.5km近い距離は

あったように思う。

小学校高学年からは、

自転車で通ったものだ。

いつぞや名古屋で

小学校の同窓会があった折、

3時間近い親睦の後、

妻と一緒に

旧小学校近辺を散策した。

片山神社以外は、

昔の様子も解らぬほど

変わり果てていた。

突然、雷鳴響き、

夕立が来そうなので

タクシーで実家の跡地を目指した。

走行コースが

北島理髪店の前の道だったが、

予想通り、影も形も

まったくなくなっていた。

あのオヤジや奥さん、不肖の息子、

そして元気ハツラツ娘も、

日本のどこかに

生存しているのだろうか・・・

少なくとも、最後に行った時から

40年余りが経過しているから、

どうにもこうにも・・・わからない。

 

〈おわり〉


「あなたが最初に

 弾いた楽器はなんですか?」

 

「あなたの最も

 好きな楽器はなんですか?」

 

このふたつの質問は、

ひょっとすると、

その人の音楽の根源、

その人の潜在意識をも

ズバリ探ることになるだろう。

おそらく誰でも、

赤ちゃんの頃

最初に触れた楽器は、

ガラガラや

頭上で回りながら

音を奏でる乳児用の

セルロイド玩具だろう。

次にハイハイが始まると、

カタカタと音をたてる

歩行器の類だが、

ボクの記憶には

まったくない。

大概の人も、記憶としては

存在していないだろう。

次の段階は、4、5歳で

ピアノ、バイオリン、笛など、

何を手にしたかで、

生き方すら大きく変わると思う。

打楽器、弦楽器、吹奏楽器と、

どのジャンルからスタートするかで、

音感、人生観も

まったく違ってくるような

気がしてならない。

これは、プロの音楽家を

目指す人以外の

普通の人には、

誰にでも当てはまる話だ。

焼失してしまったが、

幼稚園から小学校4年生までの

6年間の音楽会の

集合写真の中で、

ボクは殆ど大太鼓の脇で

スティックを持って

立っている。

クラスで一番チビなのに、

体より大きいドラムの脇で、

目を見開いている。

曲目はまったく

覚えていない。

かすかに「どんぐりころころ」

だったのではという記憶はある。

 

「どんぐりころころ 

 どんぐりこ・・・

 ドーン」

 

と、二小節最後に

ドラムを叩き、

パッと反対の手で皮を押さえて

共鳴音を止めた、

淡い記憶がある。それ以外は、

小太鼓(スネアードラム)を

日本のスティックで叩く写真・・・

残る2枚は

トライアングルとシンバル。

いつもビロードの服を着て

半ズボン姿。

何故だかすべて

打楽器なのだ。

小なりと言えども、

オーケスラ編成の音楽会で、

誰が何を演奏するかは、

先生が決めたことだと

記憶している。

ボクがボクがと

名乗りを上げた思い出は、

一切ない。

カスタネット、タンバリン、

笛など、多くの子供が

小さな打楽器。

ピアノやオルガンは、

それなりの名手の女の子が

2、3人いて、

あとの残りはすべて合唱隊。

向かって左端の、

華がとれるドラムの場所を、

ボクが占拠していた。

しかし、何故すべて

打楽器なのだろうか。

これが謎である。

小学校に入ると、

音楽の時間の必修は

ハーモニカ。

当時はハーモニカが量産できる

最も安価な楽器で、

子供から老人まで

ハーモニカ三昧。

宮田東峰という

ハーモニカ名人の肖像が

箱に描かれた「ミヤタ」と、

大きいオニヤンマがロゴマークの

「トンボ」が二大メーカー。

ハーモニカ界の

トヨタとニッサンであった。

後に河合楽器なども

生産し始めていた。

現在、ロックバンドなどが

使っているハーモニカは、

高級品で2~5万の高値だが、

当時は、多分メチャクチャお手頃価格。

まァ今の値段で

250~500円くらいだったのだろう。

しかも、日本国内のみ大流行。

世界的には、かなりマイナーな

楽器だったと思う。

吸う吐くの呼吸法と、

2オクターブくらい、

口の左右の動かし方の

ふたつが身につけば、

「夕焼け」や「赤とんぼ」などの

唱歌は、誰でもクリアー出来る。

ハモニカを吹きながら、

よく学校から帰ったものだ。

50代以上のおじさんや老人にも、

ウルトラ達人が、

ご町内に1人や2人はいて、

和音の伴奏をつけながら

見事に奏であげる。

流行歌や軍歌の名演奏に

惚れ惚れしたものである。

男の60%くらいは

ハーモニカを吹きまくっていた

あの時代は、

一体なんだったのだろう?

昭和30年代までは、

結構なハーモニカ人口がいたのだ。

個人的には、

小学一年から週一回、

ピアノのレッスンを

受けることになる。

9歳上の姉が、

子供時代からピアノのレッスンを

受けていたこともあり、

スタンウェインの

トップライトのピアノが、

応接間にドカーンとあった。

今やヤマハが

ピアノの世界シェアを、

ほぼ占有しているが、

当時、スタンウェインと言えば、

バイオリンの

ストラディバリウス並みの名器。

ひょっとしたら、何百万円の

高値だったかもしれないが、

これも火事にて消失。

一年に一回は調律師が来て、

丁寧にメンテナンスをしていた。

姉が奈良女子大に入学し、

ピアノを弾く人が

いなくなったため、

急遽、ボクが

習わされることになった。

幸か不幸か、

同級生の女の子の父上が、

音大のピアノ科出身で、

高校の音楽教師をしていた。

家から徒歩3分の

公務員住宅に住んでいたのも

運のつき。

毎週土曜日、1時間ほど

徹底的におさらいさせられていた。

同級生の彼女は小学一年生で、

天才バイオリンニストと

呼ばれた凄腕。

まァ名古屋近辺じゃ、

7歳でも敵なし。

言わば卓球の

愛ちゃんのごとき存在だった。

当然、気は強く、

ボクがレッスンを受けている最中も、

脇でジーっと見ていた。

ボクが間違えると、

フッとせせら笑ったりするから

腹がたつ。

一歳年下の妹は、

姉ほどの才能はないが、

幼少からピアノを弾いていて、

ボクがミスをすると、

優しく慰めてくれる、

おっとりとした女の子だった。

器量は圧倒的に姉の方が上で、

ギリシャ彫刻とおたふくの差があった。

我家では、

父も母もピアノは弾かないが、

母は異様な教育熱心で、

1日1時間はつきっきりで

ヤイノヤイノと練習させられる。

ボクは身長が小さかったので、

当然、親指から小指の幅も短く、

目一杯指を拡げても

一オクターブに届かない。

ゆえに、教習法にはない

変則的な弾き方を編み出す

・・・が、これもビシビシ直される。

どこで聞いてきたのか、

目一杯指を拡げた手の甲の上に

マッチ箱を乗せられ、

弾いててマッチ箱を落とすと

怒られた。まァ・・・

巨人の星の一徹おやじか、

亀田兄弟の父上の如き

ハードトレーニングに、

正直何度も泣かされた。

同級生の女の子に

笑われるのも口惜しいし、

母にビシビシ教育されるのも

辛かったが、一応

訓練に励んだので

ステップアップは早かった。

メトードローズ教則本に始まり、

バイエル、ソナチネへ、

2年間百周で一気にかけ登った。

ソナチネの一番に入った時に、

左手を複雑骨折し、

手術2回、10ヶ月近い入院治療・・・

腕はひん曲がったままだが、

正直・・・ピアノから解放されて

晴れ晴れしていた。

それほどまでに

ピアノが嫌いで、

追い詰められていたと

告白する。

大人になって

ジャズにハマったり、

ポップスのピアノ演奏を聴く度に、

もう一度やろうかなァ・・・

あの時やめなきゃなァ・・・

BARの片隅で

チョロリンと弾いて

ウケを狙えるかもしれない

などと思うが、

今更振り出しから

やる気もなし。

安いCASIOの電子ピアノなどを

買ったりすると、

昔を少しばかり思い出し、

一週間ばかり

鍵盤を叩いたりした時もある。

2番目の質問

「あなたの最も好きな楽器はなんですか?」

の答えは、文句なくピアノである。

ジャズならオスカーピーターソン、

ビルエヴァンス、ボブジェームス。

ポップスなら、R・クレイダーマン、

D・フォスター。

J・POPなら西村由紀江。

レコードやCDの

2分の1以上がピアノ中心。

バンドにしても、

カーペンターズなど

ピアノがリードする曲が

圧倒的に好きだ。

一台でもメロディーラインを

オーケストラの如く

パーフェクトに弾けるピアノは、

実はドラムに通づる

打楽器なのだ。

打楽器を基本に置いた人生・・・

生活感が、ボクの基盤にあるらしい。

吹いて歌い上げる

吹奏楽器の人生。

弓で弦を奏でる

弦楽器の人生。

呼吸、間合い、指使い、

身のこなしなど、楽器によって

人生観は大きく異なると

思うのである。

父上からピアノを習っていた

同級生の女の子の家は、

音楽一家だった。

母上は、なにを演奏するか

聞かずじまいだったが、

2人の姉妹の下に

2人の弟が生まれ、

長男は指揮者への道を歩み、

次男はチェロかビオラ奏者の

道に進んだ。

高校時代に

 

「土日には、

 一家で弦楽六重奏を

 楽しんでいるのよ」

 

と聞いた折には、

 

「フーッ豪勢だなァ・・・」

 

と、思わずため息が出た。

 

同級生の女の子は、小学4年で、

チゴイネルワイゼンや

ハンガリアンラプソディを

魔術の如く弾きこなし、

天才バイオリン少女の名を

ほしいままにしていた。

当時、集英社の少女誌

「少女ブック」の表紙は、

鰐淵晴子で、彼女も

天才バイオリニストとして

有名だっだが、おそらく

実力は同級生の女の子が

追い越していたと思う。

現在でも毎年、東京音大に

20名以上の合格者を誇る、

名古屋市立菊里高校を

首席で卒業。

後に留学して、ドイツで

チャイコフスキーコンクールで優勝。

イタリア、フランスで、

数多くの新人賞を受賞。

同級生の女の子は、60年代には、

日本が誇るバイオリニストの

位置にあったが、突然・・・

噂が聞こえなくなった。

音楽的限界に

突き当たったのかも知れぬが、

40代で開かれた同窓会では

 

「私ねぇ~オバサン稼業なの。

ドイツで商社マンと結婚して、

ビールとジャガイモとソーセージで

見ての通りよ」

 

確かに、かなりブクブクと肥えていた。

超難度技巧曲を軽やかに、

華麗に弾きこなしていた可憐な指は、

人参の如く太くなっていたが、

幸せそうな笑顔。

まァ・・・彼女も、

限界まで追い詰められた

天才少女時代は、正直、

過酷かつ苦痛の極

だったのかも知れない。

おっとりとしていた妹も

菊里高校へ進み、学芸大を経て、

地道な音楽教師となり

結婚したらしい。

2人の弟も、音楽業界で

苦闘しているなど、

20年という歳月を経て、

幸せな弦楽六重奏に

日々を興じていた一家は、

随分と予想とは

違う形になったようだ。

同級生の女の子に負けじと、

猛チャージでピアノの道を

突き進んでいたら・・・

まァほとんど

考えられぬこととしても・・・

ボクは、どんな道を

歩いていたのかと、

フト考える。

消失したスナップ写真・・・

多分、同級生の女の子の

父親が撮った1枚を想い出す。

彼女の家の隣の空き地。

燦々と射す太陽の光の下で、

ゴザがひかれ、

小二のボクがお父さん、

同級生の女の子がお母さん、

彼女の妹が子供の役で

「ママゴト」をしている。

小さなおもちゃの

フライパンやまな板、

コンロがあり、

食事の用意を

彼女がしている。

ゴザの半分ほどには、

玩具のピアノと

本物のバイオリンが置いてある。

普通のママゴトと違うとすれば、

音楽一家のママゴトだ。

大ヒット曲をのこし、

一世を風靡した

ファミリーバンドは数多い。

古くはバッハやヘンデル、

モーツアルト。

近くはマイケルジャクソンで有名な

ジャクソンファイブ。

それを真似た沖縄の

フィンガーファイブ。

兄弟姉妹ならカーペンターズ、

こまどり姉妹と

枚挙にいとまがないほど多い。

20年・・・30年という

時間軸で見ると、幸せと名声、

栄光を持続し続けたものは・・・

本当に数少ない。

大きな音楽エネルギーと

オーラが一家を包み、

聴く人々を幸せにするが、

いつの間にか、

それが破局に至り、

なぜか消え果てる。

ちやほやされるのは、

幸福に似て不幸なのかも知れぬ。

それは音楽ファミリーに

限定した話でもなく、

人の生涯・・・人生とは、

そんなものだろう。

幸せの頂点も奈落の底もなく、

なにひとつ

良きこと悪しきことなく

終わってしまう生涯のほうが、

もっと辛い話かも知れぬ。

真面目で堅実、身辺清き人は、

実は何事もしない人であり、

イヤまァ・・・

出来ない人でもある。

だからこそ、望外の喜心も

論外の不幸にも逢わず・・・

一生を過ごすのかも知れない。

西洋の格言に

「どんな人にも、人生に三度、

 幸運が訪れる」

というのがある。裏を返せば

「どんな人でも、

 三度不幸にみまわれる」

という話でもある。

・・・につけてもだ。

三度の幸運、三度の不幸・・・

都合六度のチャンスに気づかぬまま

生涯を終える人の

なんとまァ・・・

多いことかと思う。

よしんば気づいても、

対応も反応もできず・・・

儘ならぬ人生で

終始することは多い。

ボクの場合、

もう六度どころじゃないなァ。

弦楽器や吹奏楽器と違い、

打楽器はメリハリをつける人生だ。

ピアノとなれば、

飾りも変奏も自由自在。

呼吸や指先の感触に

規制される楽器とは違い、

全身全霊を、

メロディ、リズム、ハーモニーで

演出できる。演奏している本人も、

ピアノというひとつの楽器で酔い、

人をも酔わせる。

弦楽器でも、弓で叩くといった

打楽器法を入れると、

ずいぶんダイナミックな

演出ができるのがいい証拠だ。

なんども目の前にやってきた

幸運や、襲いくる不幸を、

どうやらボクは、

何気に打楽器のこなしで

アレンジし続けている

のかも知れん・・・と。

妻の3年越しの

のめり込みに触発されて、

ボクも能が

興味深いものとなってきた。

人間国宝8人勢揃いの

大舞台を拝見した時は、

もう語りつくせぬ歓喜と感動の

嵐ではあったが、やはり、

大鼓、小鼓、そして

演者が摺り足で歩きつつ、

トーントンと床を打つ

シテやワキの名演。

言葉や謡の凄まじさにも増して、

すべては打楽器なのだ。

時を刻み、間合いを計り、

時間と空間のメリハリを

ポーンと打ち込む音が決める。

流行と不易、若さと老い、美醜、

大小、長短、喜怒哀楽・・・

すべてのメリハリを、

リズム感と合いの手で、

一瞬一瞬に映し出し、

描き分けていく「打」の力。

それが幼少からのボクの

ライフスタイルの一端であり、

身についたものなのかも知れぬと

・・・改めて思う。

 

 

〈おわり〉


バケツ

学校で暴力はいけない、体罰禁止

ということになってから数十年。

表立った暴力がないことが、

逆に無視や陰湿なイジメを

育てている気もする。

昔は躾の一環として、

親や教師の暴力は

日常茶飯事であった。

口で説くより体で覚えよ・・・

という乱暴な発想ではあるが・・・。

教室内でふざけたり、

騒いだりすると、即、

廊下に立たされた。

水の入ったバケツを

持たされる折檻もあった。

4ℓの水入り・・・

ブリキのバケツを持っていると、

まず手先が痺れ、

立っているのも辛い。

血の気は失せ、

体中に震えがくる。

もう・・・騒ぐのはやめようと

心底反省するが、

3日もすると又、

バケツを手に

廊下に立っていた・・・

ぷるぷる震えながら・・・。

街路や学校から、

防火水槽の姿が消えて久しい。

コンクリートの水槽の上に、

バケツが数個ほど、

山型に積み上げられ、

火災の折のバケツリレーに備えて、

何処にでもあったのだが・・・。

今やブリキ製のバケツも貴重品。

ほとんどがポリバケツに変わった。

ブリキに比べれは、

軽く錆びないという

特典はあるものの、

叩くとカーンという

大音響がしないところが寂しい。

バケツを頭にかぶせて

カンカン叩くという

至極乱暴な遊びもあった。

名古屋地方だけに流行した

怪しい遊びのようだが、

鼓膜も破れそうなほどの

大音響の中で、

次第に脳内が痺れていく・・・

記憶も思考力も消えていく・・・

あの感覚は、フト懐かしい。

勿論、真似しないほうがいいですが。

ブリキのバケツには、

深い味のある風景があった。

 

 

(おわり)


花火

ドーンと鳴った花火だ綺麗だな♫

空一杯に拡がってぇ~🎵

 

夏になれば、

花火を堪能するのが、

楽しみのひとつである。

時には連日連夜、

花火を求めて

駆け巡る年がある。

荒川の河川敷で、

神宮のサッカー場で、

東京湾に漂うクルーズ船上で、

真上の空に、

華麗な大輪の花火が

次々と開き、火の雨が降る。

隣には、

眩しい月光に照らされた(?)

花の如く輝く妻がいる(笑)

ある年、こんなにあちらこちらと

シッカリと花火を見つめたのは

いつ以来だろうかと、ふと考えた。

取材や仕事の合間に、

タクシーの車窓から

花火を眺めたり、

ディズニーランドで午後8時から

10分程の花火ショーを

年に数度楽しむことはあったが・・・。

日が沈み、暮れゆく夕闇の中で、

河原の砂利の上に座り込み、

缶ビールと枝豆を手に、

今か今かと開演を待つ。

何百連発、何千連発の

天空の饗宴を、

妻の膝の上に寝転び、

ワーワー叫び続ける。

一時間半近く続く花火は、

奇跡的なラストへ直進する

火のドラマに、

ボクたちは没入するわけだ。

 

「ウワーッよかったねぇ~」

 

と妻と語り合いながら、

15万人余の観衆と共に、

ボクたちも帰路へつく。

昔と違い、ほとんど休憩もなく、

次から次へと、何千発の花火が

コンピューターの

プログラム通り連動して、

大空を変化自在の

デザインアートの場に変えていく。

まさに、多くの人は、

光と音の大スペクタクルに

呆然と陶酔してしまうのみだろう。

人は誰しも、

日常を越えた異界に驚き、

歓喜の声をあげる。

この世のものとは思えぬ

美しさと華麗さの連続に、

体の細胞すべてが反応して、

喜びが体中をかけまわる。

ドーンドンと

打ち上げられる大音響が、

更に細胞の感動を

加速させ続ける。

乗船料とお弁当込みで、

3時間2万円分の東京湾会場クルーズは、

興奮と感動で涙が出るほど

贅沢かつ極上の味わいであった。

豪華さでは比較にもならぬが、

少年時代の花火大会の懐かしさが

想い出された。

戦争末期・・・ボクが生まれた年の5月、

名古屋はB-29の空襲で、

街の殆どが壊滅的に焼けた。

15万人の焼死者と、

見渡す限りの焼け野原だけが残った。

市役所に勤めていた父たちが、

ゼロからの復興を進めた。

陶器や織物の地場産業が大成長し、

掘建小屋から住宅やビルも

建ち始めたのは小学校の頃だ。

尾張名古屋は城で持つと呼ばれる

名古屋城も再建され、

夏の夜に花火大会が、

年に一度開かれるようになったのは、

10歳の頃だったと思う。

打ち上げ基地が目と鼻の先の我家は、

最高の見物所(ビューポイント)であった。

父の友人や姉の学校の友人が十数人、

日暮れには我家に集い、

梯子を伝って屋根に登る。

麦茶やビールを手に、

まるで電線に並ぶ雀たちのように、

屋根棟瓦の上に横一線に並んで、

今か今かと花火を待つ。

今とは違い、ドーンドンと

5発ばかり打ち上げられると5分お休み。

またドーンドンと打ち上げられお休み

というテンポだが

 

「玉屋~っ」

「鍵屋~っ」

 

と声をあげ拍手して、存分に楽しみ

喜びの声をあげたものだ。

多分、1時間で50発程度だったが、

一つ一つの花火を大事に楽しんでいた。

シュルシュルとあえぐようにして

空を目して登る火の玉が、

パァーッと開花し消えていく・・・

なんとなく、人間の一生・・・

人生はそんなもんだよォという教訓を、

その一瞬に覚えた気もする。

不発の花火も多かったので、

より強く花開くことの凄さ真剣さが、

幼心にも印象的に焼きついた。

 

 

〈おわり〉


小遣い日給と月給の差

幼少の頃、

我家の周りの大半の子は、

お小遣いが日給制だったが、

附属小学校に通う

同級生の大半は、

逆に月給制だった。

多分・・・

日給の場合は一日5円~10円。

月給の場合は月額300~500円

だったと思う。

今との物価の比較は

極めて難しいが、

昭和27年の10~25倍くらいだろう。

当時の資料を見ると、

牛乳一合が12円、葉書一枚2円、

封筒5円、速達15円、

煙草15~20円、

映画ロードショーの入場料100円、

寄席演芸物150円、

朝日新聞月額270円、

雑誌70円あたりが平均値。

ただし、昭和27年の映画

「風と共に去りぬ」の封切館は

入場料600円と、

かなり高額だったが、

3ヶ月の大ヒットで、

30万人の観客が長蛇の列・・・

今で換算すると・・・

映画一本に1万5千円も払って

押しかけた人たちがいたわけだ。

生産量が向上し、

値段が安くなったものもあれば、

その当時は珍しくて、

かなり高値の品もあるので、

一概に単純比較は

できないのだが・・・。

子供の消費からすれば、

キャラメルが一箱8粒で10円。

安い飴やせんべいなら

2個で1円だった。

但し我家では、

買い食いは一切厳禁だった。

僕は体が虚弱で

ひ弱な子供であったため、

ナマモノや菓子は、絶対に一人で

一切買い食いしてはいけないという

ルールだった。しかも、真っ正直に、

そのルールを守っていた僕も

エライと言えばエライ。

附属小学校の子どもたちは、

それなりに裕福な家が多く、

学校から帰れば、

ふかし芋やビスケットなど、

何がしかのおやつはあったが、

我家の地域の子は、

その日の5円、10円が

すべてだった。

学校の帰りに

駄菓子屋にたむろして

「当てもの」に熱中する。

5円の投資で、

箱の中のくじを引く。

ハズレだと、

1円相当のキャラメル一粒。

大当たりだと、

森永キャラメル2箱とかグ

リコ飴5個とか、

投資額の4倍を

手に入れることが出来る

ギャンブルだ。

勿論、店が損するはずもなく、

大概はハズレくじで

散財される日々であった。

ズルチン、サッカリンといった

合成甘味料の入った

毒々しい色のジュースとか、

名前も知れぬ

ガラス菅に入ったゼリーを

チュルチュル吸い込む。

最後に当たりが出ると、

もう1本もらえた。

まァ・・・99%は

「スカ」と書かれた小さな紙が

ゼリーの中から出て、

5円没収され夢が破れる。

稀に大当たりした子は、

おやつで儲けた分を、

ブロマイド、メンコ、ビー玉と

遊興商品の購入費へ振り分ける。

そんな駄菓子屋へ、

小学校5年まで参加できぬ境遇に

僕はいたわけだ。

それは結構辛かった。

もうひとつ、

お菓子と娯楽が組み合わさった

1日1回のエンタテイメントが

「紙芝居」である。

午後3時~6時に、

町から町へと

紙芝居のおじさんがやってくる。

自転車の荷台に、

木製の紙芝居劇場セットと、

菓子やタネものの入った

箱を積み、ハンドルにぶら下げた

太鼓を叩きながら、

毎日ピッタリ定刻に、

地区から地区へと巡ってくる。

日頃、犬猿の中の

隣町の悪ガキ供も、

紙芝居屋が二丁目から一丁目へと

巡る時には、厳粛な

「受け渡しの儀式」を行う。

子供たちを集める太鼓を、

二丁目のリーダーが、

一丁目の組頭に厳かに手渡し、

ドンドドンと一丁目組は、

それを叩きながら、

町内の視聴者を集め始める。

どうも、このセレモニーは、

何かに似ていると思っていたが、

ある時ハタと気がついた。

「オリンピックの閉幕儀式」と

ソックリなのである。

センターポールに

14日間翻り続けた五輪旗が、

オリンピック賛歌の

大合唱を背に、

粛々と降りる。

開催国の大会役員8人が、

旗を掲げて場内を一周。

正面スタンドで前で、

綺麗に折り畳まれた五輪旗は、

次回開催都市の代表者に

厳かに手渡される。

聖火は静かに消えて、

大空に花火がドドーンと花開く。

スケールの差は相当あるが、

これとソックリやぁ。

誰かがニュース映画でも観て、

紙芝居屋さんの町内歓送の儀式を

作り上げたに違いない。

紙芝居の興行は、

長くても10分から15分。

本編2本の口演の前に、

当てものクイズの

ショータイムがある。

紙芝居にとっちゃ、

観客を盛り上げて、

気持ちよく鑑賞代を

巻き上げる手段だ。

前座・・・前振り興行なのだ。

なぞなぞ、頓智クイズが5問でて、

正解者はタダ見出来た上に、

飴なども商品として

下さるわけだ。

3問連続正解となると、

飴が10個も頂けたりする。

ここが知能指数と博学強賢の

スナミちゃんの出番である。

タダで見られる上に、

頂いた飴が10個もあると、

紙芝居が終わった後で、

町内の友だちに分配して、

尊敬と勇気を

少しばかりあげる。

まァ・・・毎日でもないが、

週に一回は、

そんな3問連続謎解きなどして、

ちょっぴり鼻を高くしたものだ。

紙芝居屋のおじさんにとっちゃ、

嫌なガキではあったろうが・・・。

日給制の長所は、毎日の

おやつや遊びを考えながら、

また、ギャンプルをして

獲るか獲られるかの、

その日暮らし。

毎日、こんな算段をしていると、

宵越しの銭は持たぬ人生観と、

人生に安定はない・・・

という男らしい理念が

持てるようになるが、

逆に言えば、計画性のある

1ヶ月単位の考え方とか、

貯めて大きく使うという考えは

持てない人間になるものだ。

ボクは月給派だったが、

月給派は日給派の逆で、

長期計画を立て、

使わずに貯めて、高額な

模型飛行機を買うといった

プランは立てられるが

「その日限りの人生よォ」

という荒々しさには

欠けてしまう。

本来なら、月給派は、

キチンと計画を立てて、

我慢をしつつも

初志貫徹という

立派な生き方に

なるのだろうが、

どーもボクは、

爪に火をともすような

生き方はできない

性分である。

加えて、親はかなり甘く、

本や雑誌、

文房具や野球のグローブなどは、

お願いすれば

小遣いとは別口で

買い揃えて下さる。

その上、一応おやつは

自家製で困らない。

結果として、日々の戦いの

メンコやビー玉に投資をしては

負けるという、浪費生活のみ

身についてしまった。

大学時代から社会人として

10年目あたりまでで、

麻雀、パチンコ、競馬、競輪・・・

まァ大概のギャンブルで、

ビギナーズラックはあっても

手ひどい負けが続き、

細かい損金も

散りも積もれば山となる

というわけで、すぐに手を引いた。

こと賭博に関しては、

才能がないなと

つくづく思ったのである。

どうやら、推理や予想、

相手への読みなどは

80%正しいのだが、

最後のツメが弱いようである。

つまりは、裏の裏や、

単純な決断力に、分ひとつ

能力が欠けているのだろう。

妻との間でも、じゃんけん、

オセロ、サッカーくじなど、

悉く惨敗している。

データと読みが深すぎて、

相手の強い念に

気合負けの場合が多い。

負けて悔しくて、猛勉強して

再挑戦の闘志も弱いわなァ。

オセロなど、

未だにゲームのルールや

勝ちパターンを知らず、

適当にやっている場合もあり、

負けても水に流してしまう感覚。

妻は「百万円賭ける?」と

四六時中言うが、

百万円の根拠が

どこから出てくるのか、

まったくわからない。

とは言え、妻の方が、

ま・・・ま・・・無謀だが、

度胸はいいということだろう。

鉄火場の博才は充分にある。

たいしたものだと

尊敬している。

多分・・・

仕事方面では、流れの読み方、

保険やリスク負担の

賭け方の上手さ、

チーム力の把握力も心得て、

結果は常に順風満帆なのだが、

個人的な賭けは、

いまひとつ弱いと、

ボクはつくづく思う。

日給制、月給制、

或いは年棒制という経済観や、

金の使い方は、

おそらく少年時代の習慣が、

誰でも色濃く

影響しているに違いない。

お小遣いで足りない分を

親にお願いしたりなど、

そういった様々な経験も経て、

今があるのだろう。

面白おかしく世を渡る・・・は、

少年時代とちいとも変わらぬ

暮らしだなと・・・つくづく思う

今日この頃ではある。

 

 

 

〈おわり〉


クレパスを持たせたら一日中が・・・

「この子はクレパスを

 持たせたら一日中

 絵を描いている・・・」

 

と母が笑って呟いたのは

4歳の頃か・・・5歳だったか。

家から歩いて3分ほどの

佐々木雑貨店へ、

2枚で1円の画用紙と

4枚か5枚で1円の藁半紙を

買いに行く日は楽しく、

思わずスキップしたものだ。

円ではなく、

20銭、50銭という価格が

通用する時代の話だ・・・

その銅貨もあった。

佐々木雑貨店とは言っても、

普通の民家の1階部分の大半が

お店の佇まい。

お店を入って

左側が文具中心の生活雑貨。

真ん中が計り売りの

飴や駄菓子。

右側3分の2のスペースが、

大工道具、スコップ、鍬、

シャベル、雨傘など、

農耕道具でうまり、

茶箪笥や卓袱台の家具も、

天井につくほどまで

並べられていた。

20畳くらいの広さの

言わば小型百貨店。

奥さんが終日店を

切り盛りしていて、

旦那はどこかへ勤め、

土曜日は店を手伝い、

日曜日はお休みだった。

30年近く、店舗を改装せず、

細く長く商いをしていたが、

70年代に店をたたんで

東京方面へ引っ越した。

紙を買うと、おまけで

ドロップや飴をひとつふたつ

もらう時もあった。

そんな日は、

下手な口笛を吹いたり、

即興の歌をハミングしながら、

川沿いの店を

凱旋したものだった。

固いクレパスが小さくなるまで、

色とりどりの絵を描く。

夕方の薄暗い光になるまで・・・

描いた絵が見えづらくなるまで・・・

縁側に座り込んで、

手を動かし描き続けていた。

時には輪郭を鉛筆で強く描く。

鉛筆をナイフで削るのは不得意で、

母が2本ぐらい

芯を細く削ってくれるのだが、

妙に力を込めて、

筆圧強く描くために、

すぐに丸くつぶれてしまう。

佐々木雑貨店の前の公務員住宅に、

日本画の教師が住んでいた。

 

「この子は絵を描くのが

 好きだから・・・」

 

と、月1回、お絵かき教室に

通うことになった。

林檎、梨、大根など、

季節の果物や野菜の静物画が

ほとんどだった。

細部に当たる光の陰影や、

細かい描写の技法を習った。

先生の本業は

学校の先生だったと思うが、

記憶は定かではない。

先生は、週に三回、

午後から夜にかけて

絵画教室を開催していた。

曜日と時間で、

生徒もガラリと変わるが、

僕が通っていた放課後の時間帯は、

小・中学生が数名だった。

月謝も雀の涙ほどで、言わば

ボランティア活動だったかも知れない。

記憶に残る先生の絵は、

今思えば、円山応挙や伊藤若冲に

一番近い画法だった。

鶏がたくさん舞い翔ぶ絵や、

目を輝かせた青竜、

牙を剥く白虎が左右に対峙し、

その中空を渡り鳥が飛んでいく。

 

「フォ~ッ」

 

と溜息が出るほど圧倒的なド迫力、

才能溢れる大作であったと記憶する。

先生は、

身長150cm位で小柄だが、

筋肉質の痩身・・・

まるで山奥に棲みつく

仙人のような御仁だった。

着の身着のままで、

浴衣や寝間着姿の

記憶しかない。

夏の暑い日は、

汚れた褌一枚で、

絵筆を握っていた。

容貌は仙人のごとく、

ニコッと笑うと

半分歯が抜けた口が

フワーッとした

優しい表情をつくる。

殆ど家でも姿を現さない

無口で地味な奥さんと、

僕より2つ3つ下の息子がいたので、

それなりの老人ではないが、

年齢不詳の容姿だった。

僕の中学時代に他界され、

その後、妻と少年は引越しをされて

消息知れずになった。

赤貧笑うがごとしの生活の中で、

日本画を描く姿は

ゾクッとするほど感動的な

一面もあったが、逆に

「絵描きじゃメシ喰えぬ

貧乏暮らしの一生なんだァ」

と子供心にも、

一抹の不安を覚えたのも確かである。

先生の画力に惚れてか、

生活援助のためか、

父が襖2枚分の屏風を購入した。

僕が絵を習い始めて2年余りの頃だ。

右半分に満開の牡丹が

紅で描かれ、青々とした葉が

一杯に展開されていた。

左には羽毛一枚ずつ

足の爪から鱗まで

ディテールも繊細な

夫婦の鶏が遊んでいる図だ。

上方の空には、

金粉が美しい拡がりを見せていた。

先生が夕方、体より大きい

折りたたんだ襖絵を、

嬉しそうに運び込んでくれた。

客間の八畳の端で、

美しい世界が拡がる。

値段がいかほどであったのか・・・

今もってわからず、

母も知らないだろう。

正直、この絵は相当に、

僕のお気に入りであった。

胡粉の盛り上がり方。

鮮烈な色使い。

生き生きとした

2羽の鶏の躍動感。

時間が許す限り、

いつまでも見入っていた。

それは大人になっても同じだった。

名古屋の実家が消失した時に、

生まれてから20年間の

すべての想い出や記録、

本やら玩具やらが消え去った。

全部なくなってしまうと、

あまり口惜しさはないものだが、

この鶏・牡丹図は、

今思い出しても口惜しいなァ・・・

いい絵だった。

「ああ描け、こう描け」

といった指導は、お絵描き教室で

ほとんど受けなかった。

1時間から2時間、

根を詰めて描いた1枚を

先生に見せると

 

「おう・・・よう出来た」

 

の一言でオシマイ。時折

 

「光が当たった面の裏側を、

 よ~く見ると・・・いいな」

 

といった、子供には、

すぐに理解出来ぬお言葉を

いただく時もあった。

 

「まァよォ出来た」

 

が80%だった。

絵を描くのが楽しく

大好きだったせいか、

週一回の絵のお稽古の効果か、

学校での図画は、小学校を通じて

すべてオール5。

写生会やコンテストの度に、

最優秀賞・金賞を総なめ。

いつも自分の絵が、

廊下に張り出されているのは

気持ち良かった。

まァ・・・先生や周囲が、

どう評価するか。

バランスがとれて

上手く見える絵の描き方も、

妙に会得していた気がする。

この辺の、誰が見ても

80点以上という作為と演出は、

後々、編集者として

雑誌作りの技法としての

「見せることの条件」を

小学校低学年から

身につけていたのかも知れない。

先生が所属する「青竜会」や

日本画の展覧会は、

必ず見にいった。

上手い人の見せ方を、子供なりに

チェックしていたのだ。

年に1、2回、西欧絵画の展覧会が、

美術館や松坂屋で開催されると、

これもまた必ず見に行きもした。

フランス印象派の画家

ジョルジュ・スーラの点描を

初めて見た瞬間、ドエリャー感動して

 

「これだッ!

 これしかない!」

 

と合点した。

すべて原色絵の具で

点描で描き尽くす・・・

この手法は、ものすごく

根気と時間が必要だが、

仕上がり出来映えは、

凄まじく華麗になる。

構図のバランスが多少拙くても、

圧倒する色感で・・・

上手く見えてしまうのだ。

小3からは、この技を使い、

ますます絵の成績は向上した。

今時なら「自分ひとりウケを狙う

とてもイヤーな子」として

イジメぬかれるに違いないが、

すべての学科成績優秀、

かつクラスで一番人気の

イイ子だから(笑)・・・

逆にネタもばれず、

絵の天才と認められてしまう始末。

春・秋と年に2回ほど、

野外写生会が催される。

名古屋城や鶴舞公園へ出かけ、

一日中お絵描きだ。

他の子・・・特に男の子は、

すぐに飽きて、30分もすると

絵をほっぽり投げて、

相撲をとったり、

缶蹴りなどに夢中になり、果ては

巡回している先生に見つかり叱られる。

僕だけが、真剣にクレパスであれ、

絵の具であれ、コツコツと

2時間でも3時間でも、

休まずに点描に集中していた。

青空と白い雲の背景に、

凛とたつ名古屋城など、

何千のドットで、

色鮮やかに完成に近づいていく。

学校帰りの女子高校生たちも、

そんな僕の背後に集まり

 

「この子の絵・・・

 もの凄いよォ~」

 

 

「メタクソ・・・

 うみゃ~わよねぇ~」

 

と口々に褒められ

溜息までつかれると・・・

ホントに大画伯になった気すらした。

当然の結果として、

またしても

ナンバーワン独走の

栄光に輝くことになる。

手を抜かず、真剣に・・・

好きでやっているのだが・・・

半日以上かけて

描いていることを、

衆人認めざるを得ないので、

嫉妬の対象ともならず、

またまた金賞獲得である。

小4の騎馬戦で、

左腕を複雑骨折してしまい、

手術後10ヶ月の入院生活。

そのお陰でピアノはやめられて

心から快哉を叫んだ。

絵は、体のバランスが

とれるようになった時から、

名古屋市民病院のベットの上で、

右手で描き始めた。

同室の入院患者さんや

看護婦さんの働きなど、

モデルは一杯いた。

室内でも結構素材は豊富なのだ。

加えて時間は有り余るほどある。

退屈しのぎにゃ、お絵かきは

最高の遊びにまわる。

ここでもウケにウケ、

隣の病棟の看護婦さんが

覗きにきたり

 

「絵のドエリャ~うみゃ~

 子供がおるそうだげなァ」

 

と遥か先の病室からも、患者さんが

見学に来たりしていた。

左腕は石膏ギブスに

固定され不自由なれど、

1日最低1枚を目標に

描き飛ばす日々を送った。

秋の終わりの或る日・・・

寝間着姿でベレー帽の

60歳ほどのオヤジが現れ、

僕の描いている絵を見つめ

 

「こりゃあ・・・

 スーラの真似かァ。

 真似ばっかしっとったら、

 本当にええ絵は

 かけへんぞォ~ボーズ」

 

と、病院中に

響き渡るような大声で一喝。 

 

「ゲェーッ・・・

 このオヤジには

 バレバレかァ・・・」

 

と赤面しつつ、

ゴクリと唾を飲む。

 

「確かになァ・・・

 絵に限らず、

 音楽でもなんでも芸事は、

 最初は上手な人の写し・・・

 模写・・・

 真似事から始めるのは常道。

 悪いとは言わんでぇ・・・

 むしろ褒めてやっても

 ええこっちゃあ。

 おみゃ〜の絵は、

 真似で止まってるわァ。

 そこがアカンがやァ・・・

 真似で、上手いと言われて

 慢心してまっとるわなァ」

 

とさらに畳み掛けられる。

 

そりゃまァ・・・

仰る通りではあるが・・・

そこまで大声で暴露され

恥ずかしめられることなのかァ・・・

と、子供ながらムッとする。

左手はギブスで動かぬし、

ムシャぶりつくことも出来ず。

 

「怒っとるのかァ・・・ボウズ。

 まァ・・・俺もなァ・・・

 絵描きの端くれだ。

 小さい頃から絵が好きで、

 いろんな作家の真似して、

 うみゃあと言われ続けてなァ。

 結局、歳とっても

 ロクなもん描けんことに

 なってしまったがや。

 才能がにゃーと言えば

 それまでだが、真似して

 有頂天になっとったのがなァ・・・

 おみゃあの絵を見て、

 同じ道を進んじゃ

 アカンと思うて・・・

 嫌なことを言ったかも

 知れんが・・・」

 

と、オヤジはベッドの

脇テーブルにある

僕のスケッチブックを手に取り、

パラパラと眺めて首を振る。

「スーラの画法に影響されて、

 ダメになる絵描きは多いんだ。

 勿論・・・うまく技を盗み、

 それを越えた大画家も

 ギョーサンおるよ。

 水蓮のモネも、あのゴッホも

 見事にやってのけたでよォ。

 だけんど、スーラの真似で

 ダメになったものは、

 何百人もおるわなァ・・・

 そういう魔力がある。

 ボーズは小学3年かァ?」

 

「4年で~す」

 

「その若さで、

 スーラの技を見抜いたのは

 ドエリャーコトだわなァ。

 けども、捨てなアカンわぁ~」

 

と、僕のスケッチ帳を

プラプラと振り、

ゴミ箱にポーンと投げ込み、

言うだけ言って

スタスタと病室から出ていった。

正確には、どう言われたか

細部は覚えていないが、

こんなようなことを突然言われ、

スケッチ帳まで投げ捨てられて、

呆然とした想い出がある。

それを一部始終見ていたのか、

年配の看護婦さんが駆け寄ってきて、

ゴミ箱から画帳を拾いあげ

 

「まったく・・・

 なんてことするの・・・

 子供に対してぇ」

 

と激怒し

 

「あんなオジサンの

 言うことなんか

 気にしちゃダメよ。

 絵の大好きな子に、

 ヒドすぎる」

 

と慰めてくれる。

 

それは嬉しいが、

妙にオジサンの言葉が

ザクザク心に刺さり、かつ、

なんだか病院中の人々に

盗作がバレちゃったような

恥ずかしさが、心を落ちこませた。

翌日から、スッカリ絵を描くのが

嫌になってしまった。

ギブスがとれてからも、

苦しいリハビリが続き、

復学して以降は、

図画の時間はどう過ごしていたのか

覚えていない。以降、

卒業までの2年間、ほとんど

楽しい気持ちで

絵を描いていなかったが、

それでもクレパスを

動かし続けていた。

そこには、スーラの技法を封印した

僕がいた。

 

 

 

〈おわり〉


秘密基地のノート発見

 

 

名古屋実家の焼跡から

藁半紙やノート数冊に

描かれたものが

十数枚でてきた。

そこに描かれていたのは、

小学校時代に描いた

地底の秘密基地の

断面図と平面図である。

どれも丹念に鉛筆で、

説明と図が書き込んである。

当時の月刊誌

「おもしろブック」の口絵や

手塚治虫の宇宙基地の絵柄に

ドキドキ心踊らせていたので、

その影響が一番強い。

まさかその出版社に

入社するなど、当時は

夢にも思わなかったが・・・。

僕が描いた秘密基地は、

地下十数階の深さがあり、

当時の食料不足の日々ゆえか、

食物倉庫が大半を占めている。

米や野菜は豊富に貯蔵され、

冷蔵室には魚肉もある。

かなり細かく記入しているので、

相当に飢えていたのだろう。

食い物さえあれば

生きていけるという、

潜在意識が強く

働いていたに違いない。

当然、お菓子の貯蔵庫も

描かれているが、

グリム童話の

お菓子で作られた

家の贅沢さに比べると、

質素なものだ。

ヘンゼルとグレーテルが

出会ったお菓子の家は、

そりゃまァ驚きの極地だった。

 

 

 

 

屋根はチョコレート、

壁は甘く白いクリーム、

ドアや家具はビスケット。

本を読みながら

よだれを垂らしていたが、

ボクの菓子倉庫は、

ワタナベのチューイングガムや

ドリコ飴が少々。大半は、

せんべいやおかきや乾パンと、

ろくな食材じゃない。

まァ当時はそれなりに

高望みはせず、

分を心得ていたに違いない。

地上は3階建てのビルで、

屋上に巨大なタワーと

レーダーが描かれている。

多分、完成予定の

名古屋テレビ塔を

模したのであろう。

リリーフランキーの

百万部ベストセラー

「東京タワー

 ~オカンとボクと、時々、オトン~」や

映画「オールウェイズ三丁目の夕日」で、

昭和30年代に建設されて行く

東京タワーの

凛々しい姿が大評判。

30年代ブームの原点になったが、

名古屋テレビ塔は、

その数年前・・・

20年代後半に、日本で初めて建った

「東洋一の高さ」を誇るものだった。

世界一、日本一ではなく

「東洋一」という表現方法、

キャッチフレーズは、

誠にインパクトと貫禄がある。

ど~も、この東洋一は、

名古屋地区限定の表現である事に、

後年気づくこととなるのだが・・・。

世界一にゃ程遠いが、

日本一以上ですよォ・・・

東京や大阪にゃ

負けてませんよォ~

という意地と屈折から

発想されているのかも・・・なァ。

東洋一の名古屋地下街「メイチカ」や

東洋一の東山動物園と、

何を根拠に言い放ったのかは

よくわからないが、

名古屋コーチン、イチヂク生産量、

渥美半島のチューリップ、

パチンコ業界・・・これすべてに

東洋一を枕詞につけていた。

男と生まれたからにゃ・・・

いずれ日本一世界一の仕事を遂げる。

それが男子の本懐と

心に秘めた世代。

ゼロからトップを目指し

達成するという思考回路。

ナンバーワンでなければ

男じゃないでしょ、

と意気込むのは、

やはり生まれ育った

時代と風土にあるのだろう。

秘密基地には「東洋一」とは

書かれていなかったが、

おそらくそんな気合が

入っていたのではないかと

想像する。

 

 

(おわり)

 

 


 

 

ポルトガルの旅

 

 

ポルトガルの街である

ナザレの海岸で、

浜辺に座り、

海に沈む夕陽を

じっくりと見た。

太陽が燃えるような

朱に変わり、

落ちていく。

落日、夕陽、夕映え・・・

そして、眩しさと冷たい風が、

刻々と変化していく。

自分の周りがヒンヤリと

肌寒くなっていく。

こんな感触を

しっかり味わったのは、小学校の

夏休みの終わり以来かも・・・

と思う。

当時は別の思い・・・

西の方に幸せがあると、

なんとなく思っていたが、

結局、名古屋から東の方・・・

東京へ出てきてしまった。

東から陽があがり、

中天で輝き、西へ沈む。

そうした1日の繰り返しの中に、

多くのことを感じていた

小学校の頃。

まァ将来とか、人生とか・・・

今の言葉にすれば、

そんな意味合いになるのだろう。

 

 

 

 

実はあれから50年余も、

毎日同じ繰り返しが、

太陽の運行として

あったのだが、

仕事や遊びに夢中になり、

時々はボンヤリしていた

その中で、

すっかり忘れていた・・・

というよりも、

しっかり15分以上も夕陽を

見つめる日などなかった。

大都会はビルに

囲まれているため、

地平線や水平線へ

落ちていく姿さえ見えない。

太古の人々は、

朝は太陽と共に起き、

ゆっくり沈む夕陽を見て

暮らしていたのだろう。

縄文時代や弥生時代まで

遡らなくとも、おそらく

江戸時代、明治時代・・・

いやあ昭和の20年代までは、

大半の人々が、

そういう日々を暮らして

いたのではないかと思う。

農業中心の暮らし。

太陽と共に暮らす考えも、

祭りや行事の中には多い。

我々が太陽をしっかり

見合わない生活になってから、

おそらく50年くらいなのかも

知れない。

徹夜仕事、mailやWeb文化、

夜を徹して遊ぶTVモニター・・・

現代巨大都市型の生活や文化は、

太陽を見つめる時間を

必要としなくなったが、

逆に太陽を見つめ、

眩しさと対峙しながら

想いにふけるという、

いわば自己哲学・・・

瞑想のひと時も失ったのかなと、

太陽と海の国ポルトガルで・・・

なるほどと思う。

 

 

(おわり)