原始のわたし


 

 

よく耳にする言葉に「本当のわたし」「嘘のわたし」という言葉がある。わたし自身、よく使っていた時期があるのだが今は、この言葉の摩訶不思議さを感じる。自分というのは、今ここに存在しているなに者でもなく本当も嘘もないのである。

そんな言葉の存在も忘れていた今日この頃、妙に気になっていることがある。それは「原始のわたし」とは、ということである。知識や経験で積み重ねられたわたしではなく、わたしそのものが感じること。それはいわば、脈々と繫がれてきたわたしのたましいのDNA。それこそが「原始のわたし」なのではないかと思う。そのことを探るべく、物語をはじめたいと思う。


 

 

 

なにかにとり憑かれたかのように、行動する時がある。

思考はなく、そこにあるのは止まらない衝動のみ。

目的もなにもなく、ただただ激しく突き動かされる、なにか。

それはそんなに起こることではない。

だからこそ、その衝動が起き始めたら、大切に大切に。

なにかとは、静寂の中に突如現れる、原始のわたしの記憶なのだ。


 

古の人の菖蒲の愛で方は
花を楽しむのではなく
一晩中一輪の菖蒲と向き合いながら
早朝に花びらにあらわれる
朝露を楽しむのだと知り
体験もさせていただいた。

花だけではなくすべてにおいて
面と向き合いながら
深く重く時の中に身を置く。
緊迫した空気の中に心を置く。
そこにあらわれるモノを
五感で感じとる。
受けとるモノと捨てるモノを
五感をはずしたところで感じとる。


いつもの早朝ランニングコース。緑道を走りぬけ、住宅街にさしかかるところで、歳の頃は30歳前後の女性が、しゃがみ込んで鳩に餌をあげていた。
十数羽の鳩は、さほど広くない緑道の道幅いっぱい群がり、どう避けても避けきれない。少しスピードを落とし、道の端ギリギリのところをゆっくり走りぬけた。
2、3羽の鳩は私を避けたが、その場を飛ぶことなく朝食に夢中だ。
私を気にすることなく、鳩に餌をあげ続けている彼女の顔をチラッと見た。私自身、
色の濃いサングラスをしているので、洋服も彼女の肌合いも、実際の色とは違うだろうが、そんなことよりも、彼女の佇まいと表情に、一瞬ドキッとした。なんとも深い悲しみを抱いているかのような佇まいだったのだが、その顔は聖母マリアのような慈悲に溢れたほほ笑みを漂わせていたのだ。なんという美しい姿とほほ笑みだろう。走りながら、ミケランジェロの彫刻作品「サン・ピエトロのピエタ」思い出していた。初めて出逢った彼女は、たまたまその日だけ鳩に餌をあげていたのかも知れないが、幸せな出逢いの朝だった。「サン・ピエトロのピエタ」があるサン・ピエトロ大聖堂に訪れたのは15年前。その日のバチカン市国は、青色の違いはあれど、この日のように透明な輝きで晴れ渡っていた。


村上春樹さん12作目の長編小説「1Q84」を読んでいた時、小説に登場するヤナーチェック「シンフォニエッタ」を購入し、読み終わってからも、しばらくは聴いていた。7〜8年前のことである。

その後は、その存在すら忘れていたのだが、数週間前、そのCDを目にした時から、朝に晩にと、毎日エンドレス状態で聴き続けている。極度な緊張感と東欧的な旋律が素敵であり、妙に今の私に馴染んでいるのだ。スピーカーから流れる緊張感とは裏腹に、私の心は緩んでいく一方なのである。

数週間前、仕事に着ていく装いを考えるのが、極端に面倒になり、家にいる装いのまま銀座に出かけた。恥ずべき装いではないが、食器洗いやトイレ掃除をしているままの装いである。電車の窓ガラスに写る自分の姿を見て、なんとなく気恥ずかしい気持ちにはなった。ところが意外にも、この日お逢いしたお方から、今まで言われたこともないお褒めのお言葉をいただいた。それからというもの、この装いが癖になっている。この普段着は、私の心をも普段着にしたツールだったのかもしれない。ヤナーチェック「シンフォニエッタ」の緊張感は、私を深いところで緩ませたようだ。


愚かモノなので
愚かモノと言われても
まったくかまいません
わがままなので
わがままと言われても
まったくきこえません
わがままな愚かモノの中からしか
文化は生まれません
もうひとつつけ加えましょう
無駄だと思われることを
ひたすらやり続けることでしょう
これにはかないません
無駄の中からしか
誇れる文化は生まれません


久しぶりに逢った友人が、

ずいぶん大人になったように見えた。

勿論、充分に大人だが、

芯が太くなったように感じだのだ。

先日その友人と電話ではにしていた時、

 

「mitsueさんは大人になったって

 言ってくれた時、別の友人は、

 ずいぶん皺が増えたわねって

 言ったのよ」

 

表面的なことで言えば、

その皺ひとつも美しく輝いていた。

なによりも瞳の奥が、

決して眩しくない、

静かで重厚な輝きを放っていた。

 

瞳の奥に潜むもの。

それは真心である。

 


白い雪の道を、

白い鷺が歩いている。

 

ただ、それだけで、美しかった。

   

少し経って、静は動に変わった。

わたしが感じられない気配を、

どうやって感じているのだろう。

見事に、ごはんを食する時間となった。

 

黄色い靴には、白い雪が残っていた。

飛び散った、滴も、また美しかった。

 

たった一羽の小鷺が、

風景のすべてに、

躍動感をあたえていた。

 

真似をしたい・・・

そのすべての感覚と動きを。

 


フランスが好きな男(ヒト)がいる。

その男の目はある丘を見つめている。

その丘は虚無感を味わいつくせるのだ語る。

心から楽しそうに語る。

車のハンドルを握りしめながら、

楽しそうにその丘の情景を語る。

心地いい虚無感だと、

優しい笑みを浮かべて、

平気でそんなことを語る。

日本の冬は、虚無感を味わいつくすのには

もってこいの季節だ。

虚無感には乾燥が似合う。

心地いい虚無感を味わいつくせる場所は、

多くはないだろう。

私が知っているその場所は、

酒場の隅に落ちていたような気がする

虚無感という存在を知らない頃の話だ。


バルコニーに洗濯物を干し終わった。さて打合せで外出。外の温度を確かめようと、再びバルコニーに出た。一筋の風が流れた。その瞬間、知っている香りがわたしを包んだ。洗剤は変えていない。なんの香りだろう。棒立ちになりながら空を見つめていた。確かに知っている香り。それも遠い記憶を呼び起こしている香り。だがわからない。なにかの情景が思い浮かんだわけでもなく、どこかを思い出したわけでもなく、誰かの顔が出てきたわけでもない。一筋の風はなにを運んでくれたのだろう。家に入ろうとした瞬間、ヒヨドリが花壇にとまりけたたましく鳴いた。その瞬間、我にかえった。


今朝、母に電話をしたが

繋がらなかった。

夜にまた電話をした。

5回呼出音がなり

「もしもし」といつもの声。

「昨日はごめんなさい」

「なにが?」

「なんだかつまらない話しを

 してしまって」

「なに言ってるの。

 娘が話すことはなんでも

 受けとめられるわよ」

「それだけ」

「それだけで電話してきたの?」

「そう」

すれ違う自転車の風が温かい夜。

携帯をポケットにしまい

風の中にある沈丁花の香りが

薄くなったことに気がつく。

ついに春が来た。

 


日々の中のいつもの愛おしい風景

遠い地に想いはせる愛おしい風景

たしかにここにいてたしかにそこにいた

ふたつの風景があるということは

とても豊かなことである

今見ている風景に勇気を与えられたり

いつか見た風景に励まされたりする


昨日の空の夕景に得体の知れない励ましをもらった・・・気がしている。はじめの一歩で、すっぽり穴のあいたような空の彼方に行けそうな気がした。巨人になったのか。いや、そうではなく、意識が完全にそこにいるのだ。不思議な感覚だった。目に見えている彼方は、目に観えない風景をも映し出している。笑い飛ばせない現実の感覚を抱き、昨日は先延ばしにしていた事務的なことに着手し、あっという間に出来上がった。時間にすれば12時間以上仕事しているわけだが、決して楽しくない仕事を楽しんでいたのだ。スイッチ全開で体も心も止まることなく時を刻み続けた。

風景との出逢いは、その気配に気づくか気づかないか。気配を感じた時、目に見える風景は、果てしない広がりと知らない物語を携えて、目に観えない世界での魂の響き合いを静かに教えてくれるのだろう。

 

 


 

記憶を確かめる

孤独な旅がある

手探りで歩く朝

心地いい虚無が

ポツリポツリと

遊びはじめる道

 

 

 

桜の花びらそのものは

とてつもなく静かだと

 

朝の光が教えてくれた


今日のFBの『思い出』の中に、今の私にとって、ひときわ輝くお言葉が、おそらく必然としてそこに鎮座していた。私が投稿した写真に、その方が感じた思いを書いてくださったのだ。
FBでお知り合いとなり、その後、リアルにお逢いし、お食事をさせていただき、たくさんのお話を聞かせていただいたお方のコメントに、今朝の私は大なる力をいただいた。勿論、その時も、互いに感じたことを伝えあってはいたが、数年の時を経て、今、そして今の私に、その時は感じ得られなかったその言葉の深みが、大なる響きとともに伝わったきた。
「本当に名を残すに値することは、ほかの人を素晴らしい人に変えることだ」と仰られたお方がいる。素晴らしい人になったかはこれからとして、確かなことは、残されたコメントのお言葉で、私は変わった。